S社は業界トップクラスに位置する大手企業で、業績も安定している。創業者である社長は、数十年にわたり地道に事業を発展させ、現在の地位を築き上げてきた。その過程では数々の危機を乗り越えており、経営者としての手腕と覚悟は揺るぎないものがある。
しかし、年齢を重ねる中で、会社を長男に譲りたいという思いが強まっている。一方で、専務を務めるその長男が経営者としての自覚や態度に欠けており、その現状に不安を抱えている。
経営の勉強をさせようと任せてはみるものの、その様子が危なっかしく、つい口を出してしまう。そして、そうしなければ取り返しのつかない事態を招きかねないと感じている。
父親からあれこれ指摘される専務の立場としては面白くない。最高学府を卒業し、現代的なセンスを備え、経営学(らしきもの)も学んでいると自負している。息子の目には、むしろ父親こそが時代遅れの頑固者に映っており、「父の言う通りにしたら社員たちのやる気が失われる」と反論している。
この親子経営には、双方に課題がある。まずは父親である社長の問題だ。創業者社長に共通する行動力と決断力を持ち合わせており、それゆえに数々の困難を乗り越えてきた。その実績は確かだ。しかし、特に危機的な局面での決断――右に進むか左に進むかという選択は、誰にも理解されることのない「孤独」と「苦悩」の中で下されてきたものだった。
こうした経験を繰り返す中で、危機の局面では社員に相談したり意見を求めたりしても、それが全く無意味であることを痛感してきた。その場で下す決断こそが企業の運命を左右する――それを息子にも理解させたいと考えている。
もし息子に経営の本質を教えたいのであれば、これまでの段階で企業の運命を左右するほどでなくとも、リスクを伴う意思決定をその都度息子に任せ、決断の重みと責任の重大さを体感させるべきだった。だが、それをせずに、あらゆる重要な決定を自ら引き受けてきたことが、問題の根本にあると言える。
とはいえ、創業者社長にそれを求めるのは、理屈として正しいとしても、実際には厳しい現実の中で企業経営を戦い抜いてきた彼に対して、それを怠ったと非難するのは酷というものだ。創業者にとって、リスクを誰かに任せる余裕などない状況も多々あったのだろう。
問題の本質はむしろ専務の側にある。正確に言えば、専務が信奉する「全員経営」という考え方を形作った伝統的なマネジメント思想そのものが、その責任を問われるべきなのだ。この思想は、経営の本質が時に個人の決断にかかるという現実から目を背け、意思決定の重みを曖昧にする傾向がある。
S社長は「業界のトップになる」という明確な目標を掲げており、専務もその方針には異論を挟んでいない。しかし、長期経営計画の策定において専務が取った手法は、各課長に自主的に計画を立案させ、それを各部長が取りまとめた上で役員会に提出し、簡単な審議を経て最終的な承認を社長に求めるというものだった。このプロセスは一見民主的だが、経営の本質的な決断力や方向性の明確化に欠けていたと言える。
社長は専務に任せたい一心でその計画を承認した。しかし、その計画書の中身は問題だらけだった。経営の本質を理解していない課長たちが、自分の立場から見える範囲で、マネジメント論の教えに従い「実現可能な計画」を立てたに過ぎない。それは、業界トップを目指すために必要な条件や戦略が全く示されておらず、課長自身もそれについて深く考えた形跡がないものを土台としていた。結果として、目標達成のための具体性や覚悟に欠ける計画となっていた。
各課長が個別に作成した計画は、単なる寄せ集めに過ぎず、それぞれの数字が互いに関連性を持っていない。たとえば、売掛金回収計画と売掛金残高が整合しておらず、経常利益の計画も現実とかけ離れている。そのため、借入金返済計画を立てること自体が不可能な状況だ。そもそも計画の数値が矛盾している以上、これを基に実績と比較しても、状況を正確に把握することなど到底できない。
そもそも、課長級の人材で会社全体の経営に明るい人物など稀である。特に、経理の知識や経験がない者に対して経理的な計画を立てるよう求めること自体が無理な話だ。専門知識が不足している状態では、計画が実情に合わないのも当然であり、これでは計画としての価値を持たない。
こうした状況は、「全員経営」や「部下の自主的な活動」といった美辞麗句に惑わされて進められてきた結果だ。そしてその帰結として、売上目標は達成しながらも、利益は大幅に下回る事態となった。その原因は、単なる人件費や経費の大幅な上昇ではなく、そもそもそれらを過少に見積もっていた計画の甘さにある。計画の根拠が薄弱であれば、結果が計画通りにならないのも無理はない。
こうした状況は、「全員経営」や「部下の自主的な活動」といった美辞麗句に惑わされて進められてきた結果だ。そしてその帰結として、売上目標は達成しながらも、利益は大幅に下回る事態となった。その原因は、単なる人件費や経費の大幅な上昇ではなく、そもそもそれらを過少に見積もっていた計画の甘さにある。計画の根拠が薄弱であれば、結果が計画通りにならないのも無理はない。
社員に見積もりを任せると、原価意識を発揮する者もいれば、その実、何の対策も講じずに過少見積もりを行う者も出てくる。また、経費削減を厳しく求められている場合には、逆に経費を過大に計上し、実績が予算を下回るように調整して経営者の追及をかわそうとすることもある。このような行動は、責任回避や自己保身の表れであり、結果として計画全体の信頼性を著しく損なうことになる。
いずれにせよ、最終的な責任を負わない社員の行動が、このように無責任な結果を招くことは、経営者として認識しておくべき事実だ。しかし、ここで問題にしているのは、社員個々の無責任さを非難することではない。むしろ、そうした状況を許容し、組織として責任の所在を明確にしないまま進めてしまう経営の仕組みや姿勢そのものに問題があると言いたいのだ。
私は、結果について最終的な責任を負う立場にある経営者こそが、自らの意志と責任で目標や予算を決定しなければならない、ということを主張している。経営者の役割は、社員任せにせず、自らのビジョンと判断で組織を導き、その結果について全責任を負う覚悟を持つことである。これを怠れば、組織全体が無責任な体質に陥り、経営の本質を見失うことになる。
S社長は、「『全員経営』などという美辞麗句は現実には通用しない。そんな方針を掲げるから、利益目標は大幅に未達成なのに、昇給だけは確実に実施されるという危険な事態が起こる。専務の考え方は間違っている」と断じている。しかし、専務の「全員経営」「民主経営」の理念は揺るがず、その方針を変える気配はない。この状況に社長は不安を募らせ、私に「どうにかならないものか」と訴えている。
そもそも、「全員経営」という理念の実体は、経営責任を負わない社員の意志が、最終的な経営責任を負うべき経営者の意志に優先するという、理屈としては奇妙な理論に基づいている。経営の根幹に関わる重要な意思決定において、責任を伴わない意見が重んじられる構造では、組織全体の方向性がぼやけ、責任の所在が曖昧になる危険性が高い。これが「全員経営」という美名の裏に隠された矛盾だ。
「上から押しつけてはいけない」「何ごとも部下と事前に話し合いなさい」「下の自発的意志を尊重しなさい」といった「教え」が次々と持ち込まれるが、正直なところ冗談では済まされない話だ。企業の業績は、常に客観的な情勢の変化に大きく影響を受ける。その変化に迅速かつ適切に対応するための施策は、厳しく難しいものだ。これを部下と相談しているようでは、施策が甘くなるか、タイミングを逃してしまうか、どちらかだろう。現場の声を尊重することは重要だが、最終的な判断と責任は経営者が持つべきものであり、それを曖昧にするような教えは危険でしかない。
もし社員に無理を強いる必要があるとするなら、社長としてその理由をしっかりと説明し、社員に理解と納得を得た上で協力を求めることが重要だ。そのプロセスこそが、社員の意欲を引き出す原動力になることを理解しておくべきだ。
これこそが社員との対話だ。社長と社員の対話とは、その本質において「説得」である。
会社の生き残りをかけた道を自らの責任で決断し、それを社員に丁寧に説明して理解を得た上で協力を求めることが何より重要だ。自らの意思を定めずに社員と相談することは、決して許されない行為だ。社員の自由意思に頼ろうとする姿勢は、社長としての責任を放棄するものであり、会社を破綻へと導く危険な考え方にほかならない。
S社の社長が抱える問題は、部下に経営計画を任せ、「全員経営」という美名のもと、経営の根幹を社員に委ねるという専務の方針にあります。しかし、経営責任を負う立場のない社員に計画を任せれば、無責任な数字の寄せ集めが生じるのは当然のことです。
経営計画は、会社の生き残りをかけた責任ある判断であり、社長自らが意思決定するべき最も重要な役割です。経営の方針や目標を社員と事前に相談し、彼らの意見を尊重することが「民主的な経営」だと考えるのは、誤解です。なぜなら、企業の未来を決めるのは、経営者が客観情勢を理解し、戦略的に対応する姿勢であり、部下と協議して妥協的な施策を選んでしまえば、かえって企業を破綻に導く危険があるからです。
重要なのは、社長が計画を決定し、その理由やリスクを社員に説明し、理解と協力を得ることです。この「説得」が本当の意味での対話であり、社員を納得させることで初めて強い協力体制が築かれます。経営者は、責任を放棄することなく、企業の未来に向かう道を自ら決断し、その道筋を社員に伝えることで、会社の結束を強化すべきです。
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