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販売をスカウトした専務に任せて

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販売をスカウトした専務に任せて

U社は、ある機械部品の専門メーカーだった。高度成長の波に乗って売上げが急増していった。売上高のうちの三〇%は輸出だつた。

会社が大きくなって社長一人では手が回らなくなり、誰か販売を全部任せられる人材を、ということで、同業のベテラン営業部長をスカウトして営業担当専務とし、「販売のことはすべて任せる」ということにしたのである。これが会社を大ピンチに陥れてしまった。

日本人の場合に「任せる」ということを言ったら最後、この人のやることには一切口出しができなくなってしまうのである。

「任せる」ということは、任された人の思うままに、何をやってもよい、という意味に受けとられてしまうのが日本人なのである。

だから、社長が専務に販売について何かい任せたといいながらあれ、これ言う、ちっとも任せてはいないじゃないかということになってその人に対する指令権をなくしてしまうのである。

こうして販売については、専務が自分の思うままに行ったのである。

早速目をつけたのは、売上高の三〇%を占めていた輸出である。国内でいくらでも売れるものを、何も好んで安値で輸出などすることはないと、輸出を減らしてしまった。

そこに、ドカーンときたのがオイル・ショックである。商品の売行きは激減してしまった。どの得意先も多量の在庫をかかえているだけでなく、先行きの見通し難のため、市況の回復は期待できなかった。

こんな時こそ輸出が頼りだが、その頃は、あわれなほど落込んでしまっていた。

思い余った社長は、私のところへ相談に来たが、私には何もできない。私は社長に対して、「とにもかくにも社長自身がアメリカに飛んで失地回復を計るしかない」と月並なことを申しあげるより外はなかったのである。

「任せる」というのはどういうことなのか。

右にあげたような事が起るのは、「任せる」という言葉の定義づけができていないからである。

言葉の意味も分からぬままに、やたらに使うから、会社をつぶしかねないような事が起るのである。それは、ここにあげた例だけでなく、広くあまねく世間に行き渡って、大きな害毒を流し続けているのである。

だから、「任せる」という言葉の定義づけをしておかなければならない。

その定義はどんなものだろうか。

事業というものは「やり方」の上手下手で運命が決まるものではない。「決定」によって運命が決まるのである。

その「決定」を行う人こそ社長である。社長が決定を誤れば会社はつぶれるか、つぶれないまでもピンチに陥うたりする。あるいは、いつまでたっても「ウダツ」の上がらないボロ会社でいなければならないのである。

U社の場合には、「輸出は売上高の三〇%とする」という社長の方針を無視して、

専務が勝手に「輸出よりも国内販売に力を入れる」という誤った決定をしたために、大ピンチになってしまったのである。「任せる」という言葉の定義づけがないために、専務としてやってはいけないことをやってしまったのである。

「決定」は社長の役割なのにである。

「決定」というものは実施に移される。その実施が社員の役割である。

「決定」は社長、「実施」は社員の役割である。そして任せるのは「実施」であって「決定」ではない。

当然のこととして、社員に実施を任せるには、先ず決定が明確に社員に示されなければならない。もちろん、その決定に付随する方針や留意点も明示される。その上で任せるのである。

右の点が明確になっていれば、何も問題は起らないのである。U社の場合には、

「輸出は売上高の三〇%」という決定が示されていれば、事態は違っていたはずである。さらに、「新規輸出国は、社長の事前承認がなければならない」という規制が付けられるべきであることは誰でも分かる。

「任せる」という言葉の定義づけがないのがマネジメントと称する内部管理の理論である。

そして、そこから、さまざまな恐ろしい事態が起り続けているのが現在の状態なのである。

無責任理論の原因は、事業経営を知らないヤカラの、きれい事の観念論にあるのだ。

事業経営には、「きれい事」は危険である。事業は学問でもなければ理論でもない。

事業の存続を実現する戦いなのである。事業経営者は、空理、空論に惑わされてはならない。

そして、 マネジメントの世界には、この空理空論が満ち満ちているのである。

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