自らの事業に専念せよ
F社は、スーパーまがいの食品雑貨店であった。経営不振だから手伝ってもらいたいという紹介者を通してのお話だった。
その紹介者から、F社長はある道徳組織の地区の責任者だということをお伺いしていた約束の日― それは十一月のことであった。朝、そのスーパーの前で店舗を一目見た瞬間に、あきれ果ててしまった。
店に向かって左側に、張出しがあり、そこには園芸用品が並べてあった。右側の張出しには、何と金魚鉢が並べてある。むろん金魚はいない。
そして、正面のガラス張りの壁の内側にはゴザがズラリと並べてあるのだ。十一月だというのに、この季節外れの商品を陳列しているとは何事であろうか。
店の中に入ってみたら、乱雑極まる陳列である。化粧品の瓶には、ホコリがついている。通路にはカートンが放り出してある。そのくせ、バックヤードはガラガラである。
三階の奥に社長室があった。入ったトタンに目についたのは、右側の欄間に貼ってある貼紙の文句である。「誰が正しいかではなくて、何が正しいか」というのである。
それを見た瞬間に私は頭にきたどころではない、トサカにきてしまった。いきなり初対面の社長をツルシあげた。
「社長、この貼紙の文句は何だ、とんでもない心得違いだ。事業経常では、「何が正しいか、ではなくて誰が正しいか」だ。誰とは、いうまでもなく社長だ。会社は社長一人ですべてが決まってしまうのだ。それが分からず、自らを正そうとしないから会社は赤字なのだ。
社長は道徳推進組織の世話役をやっているということだが、それが根本的に間違っている。
社長業というものは、 一年三百六十五日、 一日二十四時間、すべてを投入しても、まだ十分ではないのだ。その社長業を放り出して何が道徳指導か。こんな汚い店は日本中に無い。そして今、赤字である。このままいったら間違いなく倒産である。
社長は道徳指導など止めて、倒産に瀕している会社を再建することこそ道徳の実践ではないのか。とはいえ、あなたがどうしても道徳指導をしたいというなら、社長は誰かに譲ってからにすべきだ。
それならば私はその社長のお手伝いをしましょう。いまは社長のいない会社だから、私はお手伝いをしたくともできない。
道徳指導をやめて事業に専念するか、事業を新しい社長に任せて自らは道徳指導をするか、どちらにするかを次国の私のお手伝いの時までに決めておいていただきたい。そのどちらもできないのなら、私はお手伝いを辞退するより外にない。今日はこれで失礼します」
と会社を辞去したのである。
次回の約束の日に再度訪問し、「どちらに決めましたか」と聞いたところ、「道徳指導の適当な後任者がいないので……」という。道徳指導をしたいのだ。
もう何をかいわんや、である。私は何もいわずに辞去したのである。バカにつける薬はないのだ。数年後、その町を訪れたとき、タクシーの運転手に頼んで回り道をして、店はどうなったかを見た。店のあったところには、ビジネスホテルが建っていた。
某社に参上した時、社長が県会議員に立候補するというお話を伺い、私はお手伝いを辞退したことがある。
社長は、政治には関与すべきではない。あくまでも経済的活動で社会に奉仕すべきだという私の信条だからである。
コメント