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能力に合った仕事を与えることなど、できない相談である

人間関係論の教授たちは、口を開けば「部下にはその能力に見合った仕事を割り振れ。無理をさせるのは禁物だ」と説く。

一見もっともらしく、正論のように聞こえるが、こんな馬鹿げた理屈は存在しない。この論法に従えば、部下の能力を完全に把握していなければ、適切に使いこなすことができない、ということになる。その結果、部下の能力を理解しようと躍起になる。しかし、ここに最初の、そして根本的な誤りが潜んでいる。

その誤りは、「部下を効率的に使いこなすことが、優れた経営である」という思い込みにある。この考え方がどれほど根深いかは、「経営学」と呼ばれる書物の多くが、このテーマを中心に展開されている事実を見れば明白だ。

「巧みな人材活用」は、優れた経営の重要な要素ではあるが、それ自体が「優れた経営」そのものではない。実際、私は「下手な人材活用」をしながらも、見事な経営を実現している企業を数多く知っている。

その一例がL社だ。この会社では、役員たちが完全に二派に分かれており、ほとんど口を利くことがない。仕事のやりとりは専ら文書で行われるが、相手の要求に納得することは稀で、むしろ不満を抱くことの方が多いらしい。その結果、陰湿な嫌がらせや露骨な反対が横行し、そこまでいかなくても互いに相手の粗探しをし、不協力的な態度が目立つ。

社内も当然ながら二派に分裂し、絶えず足の引っ張り合いが繰り広げられている。モラル・サーベイの結果など見るまでもなく、常に最低レベルだ。

納期は平気で遅れ、サービスパーツの供給も全く追いつかない。それにもかかわらず、このL社は驚くべき業績を上げている。税務署のランク付けでは、同規模の企業の中でトップクラスに位置付けられているのだ。

その秘密は、L社が手がける「事業」にある。この会社はある業界で圧倒的な強みを誇っており、国内市場占有率は90%、輸出市場占有率に至っては99%という驚異的な数字を叩き出している。まさに他社が太刀打ちできない存在だ。

L社で仮にトップの意志が統一され、社内の人間関係が良好であれば、さらに業績を伸ばせるのは明白だ。しかし、これは人間関係が悪いからといって、それだけで会社の業績が上がらないというわけではない。業績の伸びが多少抑えられるに過ぎない、ということに過ぎないのだ。

人間関係というものは、結局その程度の影響力しか持たない。ここで言う人間関係とは、「ホーソン効果」的な人間関係のことであり、これが全てではない。真に重要なのは、人間そのものが企業の推進力となるという事実だ。それだけは疑いようがない。

伝統的な人間関係論が説く「能力に合った仕事を与える」という思想は、明らかに的外れだ。それどころか、この考え方にはさらに深刻な問題が潜んでいる。

「能力に合った仕事」を与えようとする行為は、皮肉にも人間の能力を伸ばすどころか、それを抑え込んでしまう結果を招く。「自家中毒」とでも呼ぶべきこの現象が、問題の本質なのである。

他人の能力を、本当に正確に知ることができるのだろうか。たとえそれが部下や後輩であっても、答えは否だろう。いや、それどころか、自分自身の能力さえ本当に理解している人間がどれほどいるだろうか。実際、自分の能力を「これこれである」と断言できる人こそ、極めて稀な存在、例外中の例外と言えるのではないだろうか。

神以外には知り得ないはずの他人の能力を、あたかも理解しているかのように振る舞い、その上で「能力に合った仕事を与える」という発想に基づく行動は、ただただ呆れるばかりだ。他人の能力を理解していると思い込むこと自体が、傲慢極まりない思い上がりと言わざるを得ない。

それだけでは済まない。部下の能力を「これこれである」と決めつけることは、裏を返せば「部下の能力はこれだけしかない」と断定することに他ならない。これが人間への侮辱でなくて、一体何だというのか。

「お前の能力は、これこれしかない」と言われて、それを怒りもせず、屈辱も感じずに受け入れられる人間など、悟りを開いた禅僧でもない限り存在するはずがない。人間性を尊重しているかのように見えるこの思想も、その実態は「人間侮辱」の最たるものの一つと言える。

さらに別の角度から考えてみよう。人間は、自分に能力が合っている(と思われる)仕事を与えられ、それをやり遂げたときに、本当に心からの喜びを感じるだろうか。能力に合った仕事を成し遂げたところで、それは「できて当然」のことであり、特別な達成感を得る理由にはならない。

当たり前のことに喜びを感じるはずがない。それに対して、周囲から「無理だ」と思われるような難題を上司から与えられ、放り出されるように任され、時にはその上司を恨めしく思いながらも、死ぬような苦しみの末に仕事をやり遂げたときこそ、人間は真の喜びを感じるものだ。その喜びは、自分自身を超えた何かを成し遂げたという実感から生まれる。

このような経験を経た後には、上司への恨みがましい気持ちは消え去り、むしろそのような挑戦の機会を与えてくれた上司に感謝の念を抱くのが、人間というものではないだろうか。苦しみを乗り越えた先にある成長と達成感が、その感謝の根底にあるのだ。

それだけでは終わらない。「自分はこんな難しいことをやり遂げる力を持っていたのだ」という確信が、彼自身の中に生まれる。その自信は、以後の行動や生き方を大きく変えるきっかけとなるだろう。これこそ、真に人間を尊重することであり、部下に対する本物の愛情と言えるのではないだろうか。

部下を本当に大切に思うなら、彼らの隠れた能力を信じ、無理だと思われるような困難な課題をあえて押しつけ、つき放すべきだ。そして、表立って手を貸すのではなく、陰からじっと見守る。それでもやり遂げられなかったときには、叱責するのではなく、別の新たな難題を与え、再び挑戦の機会を与える。それこそが真の人間愛であり、部下の成長を願う本物のリーダーシップと言えるだろう。

「獅子は我が子を谷底に突き落とす」や「可愛い子には旅をさせよ」という日本古来の諺は、何百年もの間、人々の知恵と経験の洗礼を受けてなお生き残った言葉だ。これらが今なお語り継がれているのは、それが単なる教訓ではなく、普遍的な真理を内包しているからに他ならない。

著者は「能力に合った仕事を与える」という人間関係論の理論に対し、痛烈に批判しています。彼は、人間の能力を他人が完全に理解することなど不可能であり、「部下の能力を知って適した仕事を与える」という発想自体が無意味であると述べています。人間は他人どころか自分の能力さえも正確に理解しているわけではなく、能力を決めつけることは人間の成長可能性を侮辱し、閉じ込めてしまうと指摘します。

著者は、むしろ無理に思える難しい仕事を与え、部下を突き放して見守ることが本当の意味での人間尊重であり、成長の機会を与える真の愛情だと主張しています。「獅子は我が子を谷底に突き落とす」「可愛い子には旅をさせよ」という日本の古い諺が示すように、挑戦を与えることが部下の成長に必要であり、それこそが本当の人間尊重だとしています。

人間は、簡単な仕事や当たり前のことをこなしても喜びや充実感は得られないが、「無理だ」と思われる挑戦を乗り越えたときに初めて大きな喜びと自信を得るものであり、それが新たな行動を生み出す動機になると述べています。この視点で見れば、部下が困難を乗り越える経験を積むために、上司は意図的に難題を課すべきであり、それこそが本当のリーダーシップであると考えています。

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