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第四章  王珪

概要

王珪は、太原の祁県(現在の山西省祁県)出身で、高祖の時代から仕官していた優れた政治家であり、特に太宗に対する忠誠心と直言の精神で知られています。彼は長年にわたって国政に参加し、特に太宗の政治に対して多くの貢献をしました。王珪はまた、その人柄と能力によって、太宗から厚く信頼されました。

初期の経歴と忠誠心

王珪は、武徳年間に隠太子(皇太子)の中允(文章係)として仕官し、皇太子李建成に非常に礼遇されました。しかし、後に李建成の陰謀に加担したとして、嶲州(現在の四川省西昌県)に流されました。建成が倒され、太宗が即位すると、王珪は再び呼び寄せられ、諫議大夫(皇帝の諫め役)として仕官します。その後、王珪は常に誠実に忠節を尽くし、太宗の意見を正す重要な役割を果たしました。

太宗との関係

王珪は、太宗の信任を受けて多くの機会に忠告をしました。太宗は王珪が自分の欠点を指摘することを受け入れ、それによって自らを改めることができたと語っています。太宗は、王珪がもし自分の諫め役としてずっと存在していれば、過ちを犯すことは絶対にないと信じ、王珪の存在の重要性を認識していました。

王珪の貢献と評価

貞観元年(627年)、王珪は門下省の次官として政治に参与し、また太子右庶子(皇太子侍従官)も兼任しました。貞観二年(628年)には門下省の長官に昇進し、政治における役割が増大しました。王珪は、房玄齢、魏徴、李靖、温彦博、戴冑とともに、太宗の側で国政を担い、数々の重要な決定を行いました。

ある時、太宗が王珪に対して、房玄齢らを含む他の有能な臣下を評価するよう求めました。王珪は謙虚に自分と他の臣下を比較し、各々の長所を認める一方で、特に自分が他の者と比べて優れている点として「世の穢れを清め、悪を憎み善を好むこと」においては一日の長があると答えました。太宗はその答えを深く認め、王珪の誠実さと深い洞察力を高く評価しました。

王珪の評価と影響

王珪は、太宗から非常に高く評価され、重要な役職を任されました。彼の忠誠心と公正な性格は、太宗の治世に大きな影響を与えました。太宗は、王珪の意見を常に重視し、彼を信頼して政治を任せました。そのため、王珪の政治的影響力は非常に大きく、彼がいなければ、太宗の治世がどれほど円滑に進んだかは疑問です。

結論

王珪は、太宗の最も信頼された側近であり、その忠義と政治能力によって太宗を支えました。彼の直言と政治に対する深い理解は、太宗が成功した要因の一つであり、王珪の貢献は唐の治世を安定させるために欠かせないものでした。太宗と王珪の関係は、君主と臣下の理想的な信頼関係の一例として、後世に語り継がれるべきものです。

以下に『貞観政要』巻一「貞観初論政要」より、**王珪(おう・けい)**に関する人物評価・登用・功績について、指定の構成で整理いたします。


目次

『貞観政要』巻一「貞観初論政要」より

(王珪の人物評・登用・功績)


1. 原文(要点抜粋と整理)

王珪は太原祁県の出身で、武徳年間に隠太子(太宗の兄)の中允として仕え、礼法や儀制に通じていた。しかし、隠太子の陰謀に連座し、嶲州に流刑となった。その後、建成が誅されて太宗が即位すると、召し出されて諫議大夫に登用された。

彼は常に忠誠を尽くし、政事に多くの意見を献じた。あるとき封事を上奏して太宗を強く諫めた際、太宗は「君主が国家を安定させられないのは、過ちを聞かず、あるいは聞いても改めないからである。今、卿のように過ちを正しく指摘してくれる者がいて、それを聞いて自分が改めるなら、社稷が安定しないはずがない」と述べ、深く評価した。

また「もし卿がずっと諫官にいてくれるなら、永遠に過ちはないだろう」とまで言われ、非常に厚遇された。

貞観元年には黄門侍郎・太子右庶子、翌二年には侍中に任命され、房玄齡・魏徵・李靖・温彦博・戴冑らとともに政事に参画した。

あるとき、太宗が宴席で「そなたの見識や論理は優れている。他の諸臣と比較して、自らをどう思うか」と問うと、王珪は自らの長短を率直に語った:

  • 国家に仕える熱心さでは房玄齡に及ばず。
  • 諫言の精神では魏徵に及ばず。
  • 文武の才や将相としての適性では李靖に及ばず。
  • 文書の正確さと対外対応では温彦博に及ばず。
  • 多くの事務を処理する能力では戴冑に及ばず。
  • ただし「悪を憎み、善を称える正義感」では自分に分がある、と答えた。

太宗はその言葉に深く感じ入り、群臣も皆が「自分の本心を率直に語った」として、これを「確論(確かな意見)」と賞賛した。


2. 書き下し文

王珪は太原祁県の人なり。武徳の中、隠太子の中允たり。甚だ建成の礼にかなえり。後にその陰謀の事により、嶲州に流さる。建成誅され、太宗即位す。召して諫議大夫に拝す。毎に忠節を推し、多く献策す。

珪、嘗て封事を上して切に諫む。太宗、謂いて曰く、
「卿の論、皆わが過失を中てり。自古、君主たる者、社稷の永安を欲せざる者莫し。然れども得ざるは、ただ己が過を聞かず、あるいは聞けども改めざるが故なり。今、わが過失あり、卿能く直言す。朕また聞いて能く改む。何ぞ社稷の不安を憂えんや」と。

また曰く、
「卿、若し常に諫官の職にあらば、必ず永く過ち無し」と。これを待つこと甚だ厚し。

貞観元年、黄門侍郎・太子右庶子。二年、侍中を拝す。時に房玄齡・魏徵・李靖・温彦博・戴冑とともに政を共にす。

宴席にて、太宗、珪に曰く、
「卿の識見明らかにして尤も善く談ず。房玄齡等についても人物評を試みよ。また、自らを量って諸子の中で誰に勝るや」と。

珪、対えて曰く、
「忠誠にして国に奉ずる心においては、臣、房玄齡に及ばず。諫諍を以て心とし、君に堯舜のごとくならんことを望むにおいては、臣、魏徵に及ばず。文武の才において将相として用うるに、臣、李靖に及ばず。奏事明らかにし、外交の使に当たるにおいては、臣、温彦博に及ばず。繁務を処理して事務を整えるにおいては、臣、戴冑に及ばず。ただ、濁を激し悪を嫉み、善を好む心においては、これらの者に一日の長あり」。

太宗、深くその言を然りとし、群臣もまた各々「真に己の心を述べたもの」として、「確論」と称す。


3. 現代語訳(まとめ)

王珪は、正義感と諫言の力によって太宗に重く用いられた忠臣である。太宗と建成が対立していた当時、王珪は建成に仕えていたため一時は流刑になったが、太宗は彼の才能を認めて召し出し、諫議大夫として登用した。

王珪は何度も太宗に対して厳しい進言を行ったが、それを恨まれるどころか、「諫めてくれる者がいれば、私は誤らない」と太宗から感謝された。高い見識と率直さが評価され、政務の中枢を担った。

特に注目されるのは、太宗からの「自分は他の重臣たちと比べてどうか」という問いに対し、王珪が他人の長所を率直に認めたうえで、自身の正義感だけは負けないと述べた点である。その自己認識の高さと謙虚さ、そして誠実さが「確論」と称された。


4. 用語解説

  • 中允(ちゅういん):太子に仕えて儀礼・礼法などを補佐する官職。
  • 封事(ほうじ):上奏文。君主への直接の諫言や意見書。
  • 確論(かくろん):確かで誠実な意見。言葉と心が一致していることへの賞賛。
  • 侍中(じちゅう):中書省の高官で、皇帝に最も近い側近職の一つ。
  • 黄門侍郎(こうもんじろう):詔勅や詔令の起草などを担う官職。

5. 解釈と現代的意義

王珪の姿勢は、自己の強みを把握しつつも、他者の長所を真摯に認める高潔なリーダー像を体現している。また、権力者に対して臆せず進言する姿勢は、組織における「健全な対話文化」を形成するうえでの理想のモデルといえる。


6. ビジネスにおける解釈と適用

  • 「正義感と誠実さは、信頼の礎となる」
     王珪のように悪を憎み、善を尊ぶ姿勢は、倫理的リーダーシップの基盤。
  • 「自己評価力と他者尊重の両立」
     優れたリーダーほど、己を知り他を認める。これが組織の成熟を導く。
  • 「本音を語れる関係が、信頼を築く」
     太宗と王珪の関係は、意見の言いやすさと受け入れの姿勢が両立した好例。

7. ビジネス用の心得タイトル

「自知と直言──“確論”が組織を照らす」


このように、王珪は忠義・清廉・正義感・バランス感覚のいずれにも優れた宰相であり、リーダーにとって不可欠な参謀像の一つといえます。

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