貞観八年(634年)、太宗は側近の者たちに言いました。
「隋の時代には、人民がいくら財貨を持っていても、それを保ち続けることはできなかっただろう。私が天下を治めるようになってから、人民の養育に専心し、重い租税や労役を課すことはしなかった。人々は各々が自分の生業を営み、その資財を守ることができるのは、私が与えた賜物である。もし私が重税をやめなかったのであれば、たとえ何度も褒賞を与えたとしても、民にとってはそんなものはもらわない方がましであろう。」
これに対して、魏徴は答えました。「昔の聖人である堯や舜が帝位にあったとき、人民は『我々は畑を耕して食べ、井戸を掘って飲むだけだ』と言っていました。食物を口に含み、腹を満たしながら『帝の力は我々には関係ない』と言いました。今、陛下はこのように人民を養っていますが、人民はその恩恵に浴しながらも、それを気にしていないのです。」
さらに、魏徴は上奏をしました。「昔、晋の文公が狩りに出かけ、獣を追って碭(安徽省碭山県)に行き、大きな湿地帯に入って道に迷い、出られなくなりました。そこに漁師がいました。文公は漁師に言いました、『私はあなたの君主である。どの道を行けばここから出られるのか。案内してくれれば、後でたっぷりと褒美を与えよう』。漁師は『私にはお聞きしたいことがあります』と言いました。文公は『この湿地帯を出たら聞こう』と言い、漁師を案内して湿地帯を抜けました。すると、文公は『先ほどあなたが言いたいことは何だ、聞かせてくれ』と言いました。漁師はこう答えました。『鴻や鵠のような大きな鳥は、黄河や海に住んでいます。そこを嫌って小さな沢に移れば、矢で射られる心配があります。鼈や鰐は、深い淵に住んでいます。そこを嫌って浅瀬に移れば、釣り針にかかる心配があります。今、君主様は碭で狩りをしてこの地に入られましたが、どうしてここまで来たのですか』。文公はそれを聞き、『もっともだ』と褒め、従者に漁師の名を書き留めさせました。ところが漁師は『私の名前を記録する必要はありません。君主が天を尊び、地を仕え、社稷の神を敬い、国内を安定させ、万民を慈しみ、労役や租税を軽くすれば、私もその恩恵に与ることができます。しかし、君主が天を尊ばず、地を仕えず、社稷を敬わず、国内を固めず、外では諸侯に対して礼を失い、内では民心を逆なでするような場合、私のような漁師がいくら褒美をもらっても、それを保持することはできません』と言い、褒美を辞退しました。」
太宗はその話を聞き、「お前の言う通りだ」と答えました。
解説
この章では、太宗が政治において最も重要なことは、人民に対して過度な税負担をかけないことであると強調しています。過去の歴史を見ても、褒賞や恩恵を与えても、民衆がそれを持ち続けることができなければ、結局は国の安定を保つことはできません。重要なのは、まず人民の生活を安定させるために税負担を軽減することです。
魏徴の意見は、また、君主の責務についての深い教訓を与えており、君主が天を尊び、地を仕え、社稷を敬い、国内を治めることで、人民からの信頼を得ることができると説いています。
この考え方は、今後の統治における基礎として、君主と臣下の関係、そして国家の安定を保つための指針となりました。
『貞観政要』巻一「貞観初論政要」より(貞観八年)
1. 原文
貞觀八年、太宗謂侍臣曰、
「隋時百姓縱有財物、豈得保此。自朕有天下已來、存心撫養、無有橫科差、人人皆得營生、守其資財、即是天賜。向使橫科喚不已、雖數加賞賜、亦不如不得。」
魏徵對曰、
「堯・舜在上、百姓亦云『耕田而食、鑿井而飲』。含哺鼓腹、而云『帝何力於其間矣』。今陛下如此含養、百姓可謂日用而不知。」
又奏稱、
「晉文公出田、逐獸於碭、入大澤、不知所出。其中有漁者。文公謂曰『我、若君也、將安出。我且厚賜若』。漁者曰『臣願有獻』。文公曰『出澤而受之』。於是乃出澤。文公曰『今子之所以欲獻寡人者、何也。願受之』。
漁者曰『鴻鵠保河海。厭而徙之小澤、則有矰丸之憂。黿鼉保深淵。厭而出之淺渚、必有射之憂。今君出獸碭、入至此、何行之太遠也』。文公曰『善哉』。謂從者記漁者名。
漁者曰『君不以名。君能事天事地、敬社稷、保四國、慈愛萬民、寬賦斂、輕租稅、臣亦與焉。君不能事天、不事地、不敬社稷、不固四海、外失禮於諸侯、內不親民、上下離心、一國流散、漁者雖有厚賜、不得保也。』
遂辭不受。」
太宗曰、
「卿言是也。」
2. 書き下し文
貞観八年、太宗、侍臣に謂いて曰く、
「隋の時、百姓、たとい財物有りといえども、豈(あに)これを保つを得んや。朕、天下を有するより已來、心を存して撫養し、橫(おう)なる科差無く、人人ことごとく生計を営み、其の資財を守るを得たり。即ち是れ天の賜いなり。もし横科の徴喚やまずば、たとい数たび賞賜を加うるも、得ざるに如かず。」
魏徵、対えて曰く、
「堯・舜、上に在るとき、百姓また云えり『田を耕して食し、井を鑿ちて飲む』と。哺を含み腹を鼓し、而して云えり『帝、其の間に何の力かあらんや』と。今、陛下もまた斯のごとく百姓を含養し、日用にして知らずと謂うべし。」
また奏して曰く、
「晋の文公、田に出で、碭(とう)にて獣を逐い、大澤に入り、出ずる所を知らず。その中に漁者あり。文公、これに謂いて曰く『我、君たる者なり、将いずれより出でん。我、汝に厚く賜わん』と。漁者曰く『臣、願わくは献有らん』。文公曰く『澤を出でてこれを受けん』。於是ち澤を出ず。
文公曰く『今、子の寡人に献ぜんとする所以は何ぞ。願わくはこれを受けん』。漁者曰く『鴻鵠は河海に保たる。厭(いと)いてこれを小澤に徙せば、すなわち矰丸(そうがん)の憂いあり。黿鼉(げんだ)は深淵に保たる。厭いてこれを浅渚に出せば、必ず射らるるの憂いあり。今、君、碭に出でて獣を逐い、此に至る、何ぞ行くことの甚だ遠きや』。
文公曰く『善き哉』。従者に謂いて、漁者の名を記せしむ。漁者曰く『君、何ぞ名を以てせん。君、能く天を事(つか)え、地を事え、社稷を敬い、四国を保ち、萬民を慈しみ、賦斂を寛くし、租税を軽くせば、臣もまた与(とも)にせん。君、天を事えず、地を事えず、社稷を敬わず、四海を固くせず、外に諸侯に礼を失し、内に民を親しまざれば、上下心を離れ、一国流散せん。漁者、たとい厚賜を受くといえども、これを保つを得ず』と。遂に辞して受けず。」
太宗曰く、
「卿の言、是なり。」
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