MENU

第十三章  自制こそが天下泰平の道

貞観十九年(645年)、太宗は側近の者に向かって次のように語りました。

「私が古来の帝王を見てみると、驕り高ぶって失敗した者が数えきれないほどいます。遠い太古のことはともかくとして、晋の武帝が呉を平定し、隋の文帝が陳を滅ぼした後、二人ともますます驕って贅沢になり、自分の功績を誇り、臣下もまたあえて忠告しなかった。そのため、政道は緩んでいきました。

私は、突厥を平定し、高句麗を破ってから、テュルク民族の鉄勒を併合し、砂漠地帯をも領土として州や県を設置しました。遠くの異民族も服従し、私の名声と徳化は広まっていきました。しかし、私は自分が驕り威張る気持ちを持つことを恐れて、常に自分を抑制しています。日が暮れてから食事をとり、座ったまま夜明けを待つこともあります。

いつも思うことは、臣下の中に正しい道を直言し、それを政教に役立てられる者がいるならば、注意して見逃さず、その人を師友として待遇しなければならないということです。そうするのは、天下泰平を願うからにほかならないのです。」


解説

この章では、太宗が自らの統治の姿勢を示しています。過去の帝王が驕り高ぶり、結果として失敗したことを反省し、驕りを避けるために自己抑制を心がけていると述べています。特に、自らの名声や功績に溺れることなく、日々の生活や食事も簡素にし、常に謙虚でいることの重要性を強調しています。

また、太宗は正しい意見を述べることができる忠臣の重要性にも触れ、そうした忠告を受け入れ、国政に活かす姿勢を示しています。これによって、天下の安定と平和を保ちたいという意図が感じられます。

目次

『貞観政要』巻一「貞観初論政要」より(貞観十九年)


1. 原文

貞觀十九年、太宗謂侍臣曰、
「古来の帝王を観れば、驕り矜ることで敗れた者は数え切れないほどである。
昔を鑑みることができず、たとえば晋の武帝のごときは、
隋の文帝もまた陳を滅ぼした後は、ますます驕奢に走り、己を誇って臣下はもはや諫めず、政治はこのために乱れた。
朕もまた突厥を平定し、高麗を破り、さらに鉄勒を併合し、沙漠を席巻して州県となし、
異民族は皆帰服し、威声は遠くにまで及んだ。
されど朕は驕矜の心を抱くことなく、常に自らを抑え、朝はわずかに食して夜を待つごとく、
つねに忠臣の諫言を求め、政に活かせる言葉を聞けば、必ず目を拭いて師や友のように遇するよう努めている。
このようであれば、天下は少しは安らかに保たれるであろう。」


2. 書き下し文

貞観十九年、太宗、侍臣に謂いて曰く、
「古よりの帝王を観るに、驕矜(きょうきん)にして敗を取る者、数うるに足らず。
昔を鑑(かんが)みること能わず、晋の武帝のごときに至りては、
隋の文帝、陳を伐ちて以後、心は愈(いよいよ)驕奢となり、自らを誇り、臣下もはや言を復さず、政治はこれによりて紊(みだ)る。
朕もまた突厥を定め、高麗を破り、さらに鉄勒を併(あわ)せ、沙漠を席巻して州県と為し、
夷狄(いてき)はことごとく帰服し、声威は遠くに及べり。
しかれども朕は驕矜を懐かず、恒に自ら抑折し、朝にして食をわずかにし、坐して晨(あした)を待つ。
つねに思うらくは、臣下に讜言(とうげん)・直諫ある者あらば、政に施すべく、目を拭いて師友のごとくにこれを待つべし。
このごとくなれば、庶幾(こいねが)わくは時に康泰たらん。」


3. 現代語訳(逐語)

  • 「古来の帝王を観れば、驕り矜ることで敗れた者は数え切れない」
     → 昔からの王たちを見れば、傲慢や自惚れによって滅んだ者は数えきれない。
  • 「晋武帝や隋文帝もまた、勝利の後に心が緩み、自惚れが過ぎて…」
     → 戦勝によって油断し、贅沢になり、自らを誇って、諫言を受けなくなった。
  • 「その結果、政治は乱れた」
     → 諫める者もいなくなり、国政が荒れていった。
  • 「自分もまた、突厥や高麗を破り、夷狄を従えたが…」
     → 自分(太宗)も同様に戦果を上げてきた。
  • 「しかし慢心せず、日々自制し、早朝から質素に暮らし、忠臣の進言を求めている」
     → 自らを戒め、朝に少し食事する程度で耐え、忠臣の意見に耳を傾けるように努めている。
  • 「良き意見があれば師や友のように迎え入れる」
     → 良き助言をくれる者があれば、目を拭いて(注意深く)迎え、師や友のように接する。
  • 「このようにしてこそ、天下も安定に向かうのだ」
     → こうしてこそ、国家の安寧が維持されるのだろう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次