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第八章  馬周

概要

馬周は、山東省の茌平(現在の茌平県)出身で、貞観年間に長安に来てから、政治の才を発揮した人物です。彼は、太宗(李世民)の政治改革や朝廷の運営に深く関わり、その優れた策謀と忠義によって、太宗から大いに信任されました。

政治における初期の成功

馬周が長安に到着したのは貞観五年(631年)で、最初は常何の家に宿泊していました。その時、太宗は官僚たちに政治の良し悪しを上奏するように命じており、常何は馬周が述べた二十条以上の策を太宗に上奏させました。それらの策はすべて太宗の意に適っており、太宗はその才能を疑い、常何にその出所を尋ねました。常何が「これは我が家の客、馬周の意見です」と答えたことから、太宗は馬周を呼び寄せました。

太宗の信任を得て

馬周はその日のうちに召され、太宗との面会後、非常に喜ばれました。太宗はその才を認め、馬周に門下省での職を与え、監察御史(官吏の監察官)としての任務を与えました。その後、中書舎人(上奏管理官)にも任命され、馬周は徐々に太宗の重要な側近となりました。彼は弁舌に長け、事態の把握が非常に速く、常に的確な意見を上奏することができました。

政務における貢献

馬周はその優れた政治手腕と忠義から、太宗から厚く信任されました。貞観十八年(644年)には、中書省の長官に昇進し、同時に太子左庶子(皇太子の侍従官)も兼任しました。朝廷と東宮(皇太子の宮殿)の両方の職務を担い、政務を公正に処理しました。太宗は側近に向かって、馬周の能力を高く評価し、「彼は非常に敏捷で、物事を慎重に処理する性格で、人物を論評する際にはいつも率直である。馬周が政務に携わると、私の意見と一致することが多い」と語っています。

太宗との信頼関係

太宗は、馬周に対して非常に深い信頼を寄せており、彼の優れた才能と忠誠心を高く評価していました。馬周の忠義と実力を信じ、太宗は彼がいなければ現在の政治が安定しなかっただろうと感じていたようです。馬周もまた、太宗を忠実に支え、彼の政治的意図を実現するために全力を尽くしました。

結論

馬周は、太宗の治世において、非常に重要な役割を果たした官僚であり、彼の政策や改革に対する貢献は大きいものでした。政治的な才と忠義心を兼ね備えた馬周は、太宗の信任を受けて、朝廷の中で確固たる地位を築き、時の政権に大きな安定をもたらしました。

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