◆ 現代語訳と要旨
貞観十一年(637年)、太宗は詔(みことのり)を発し、過剰な葬儀を厳しく禁じる政策を打ち出しました。
「私は聞いている。死とは、生命の終焉であり原初に還ること。葬とは、埋葬して人目から隠すことである。古代の風習では、墓に盛り土をしたり、墓標として木を植えることもなかったが、後世になってから棺桶や副葬品が用意されるようになった。
贅沢な葬儀を非難するのは金銭の問題ではなく、盗掘や災いの危険を避けるためである。だからこそ、堯・秦の穆公・孔子・延陵季札のような古の賢人は、慎ましく質素な葬りを選んだ。
一方で、呉王闔閭・始皇帝・季平子・向魋らは、珠玉を埋葬品に用い、石棺を用いるなどして過剰な装飾を行い、結果として墓が盗まれたり、遺体がさらされたりという災いに見舞われた。これは非常に悲しいことである。
今、私は天下の頂点にいるが、歴代の制度の弊害を改めなければならない立場にある。夜明け前から政治を考え、常に国家の将来を案じている。
ところが現実には、高貴な家柄でさえ俗流に流され、庶民の間では身分を超えた贅沢が流行っており、風俗を乱している。厚葬こそが孝行と誤解され、衣服・棺桶・霊柩車・副葬品などに金銀や宝石を散りばめて競う始末である。富者は規則を超えて贅沢を誇り、貧者は無理して家計を壊す。
こうしたことは道義を損ない、死者に何の益もなく、社会にとって大きな害悪である。よって今後は、
- 王公以下のすべての人民に対し、
- 礼法を逸脱した葬礼を行った者については、
- 州府の役人が調査し、法に基づいて処罰する。
また、都に住む五品以上の高官や功臣・外戚においては、書面で太宗に報告するように命じた」。
注釈と歴史的背景
- 「葬は隠なり」:『礼記』などに見られる儒教的死生観。死者を静かに送り出し、目立たせず、社会の秩序を守る思想。
- 古の薄葬の賢者たち:
- 堯(ぎょう):林に埋葬、封土や墓標を設けず。
- 秦の穆公:盛り土をせずに埋葬。
- 孔子:親の墓も高くせず。
- 延陵季札:墓は寄りかかれる程度の低さ。
- 豪奢な厚葬の例:
- 呉王闔閭:宝飾を埋めたため墓荒らしの対象に。
- 秦の始皇帝:水銀を使って墓に江海を模し、後に盗掘。
- 季平子・向魋:政治的権勢をもって贅を尽くし、これまた墓暴きに遭う。
本章から導かれる「心得」
◉ 1. 死者への敬意は、質素にこそ表れる
葬儀は「敬意の表現」であると同時に「社会的なメッセージ」でもあります。見栄や虚飾に走った豪奢な葬儀は、かえって故人の名誉を損なう結果となりかねません。
◉ 2. 家族・子孫を困らせる“死後の贅沢”は避けよ
経済的に無理をしてまで体裁を整えることは、残された者たちに負担をかけます。死後まで虚栄に執着するのは、むしろ不孝であるという太宗の厳しい姿勢が示されています。
◉ 3. 上に立つ者こそ、模範を示すべし
太宗は自らを「四海の主」「百王の後」と位置づけ、模範者として制度を正す責務を自覚していた。特に高官・功臣・外戚のような「人の上に立つ者」が贅沢をすれば、庶民もそれを真似て社会全体が乱れるため、法によって規制を明確化した。
結び:「死をもって国家と風俗を整える」
この章において太宗は、葬送儀礼を通じて「倹約」の理念を社会に根付かせることを目指しました。儒教における礼制に基づき、国家の秩序と人民の道徳を正そうとするこの政策は、ただの経費節減ではなく、「死生観を通じた統治の改革」であったといえるでしょう。
コメント