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第二章  杜如晦

概要

杜如晦は、太宗の治世における重要な臣下で、彼の登用と重用により太宗の政権が安定したとされる人物です。杜如晦はその知恵と才能を認められ、秦王府での活躍を経て、最終的には太宗の側近として政治に深く関与しました。

初期の経歴と登用

杜如晦は、長安の万年県(現在の西安市)出身で、初めは隋の時代に兵曹参軍として仕官し、その後陝州総管府(東方の陝州、現在の陝西省の一部)の長史に任命されました。初期はそれほど目立つ存在ではありませんでしたが、太宗の秦王府に仕官した後、次第にその才能を認められるようになります。

当時、秦王府には多くの英俊な人材が集まっていましたが、多くが外部に転任していき、太宗はそのことで悩んでいました。そんな中、房玄齢は杜如晦について次のように述べます。「他の者が去ることは惜しむに足りませんが、杜如晦は聡明で高い見識を持ち、王を補佐する才能の持ち主です。帝王として天下を治めるならば、杜如晦を抜きにしてはその治世は成し得ない」と。これにより、太宗は杜如晦をより厚く遇し、ついには秦王府直属の役職に任命し、常に軍事や謀議に参画させるようになりました。

政治的な活躍

杜如晦は、秦王府においてさまざまな問題に直面した際、冷静かつ的確に裁定を下し、その手腕を多くの同僚から尊敬されました。太宗が皇太子の座をめぐる陰謀に巻き込まれた際、杜如晦は房玄齢とともに事態を収拾し、太宗を皇太子に擁立しました。この功績により、太宗が皇太子となった後、杜如晦は太子右庶子(侍従官)に任命されました。

太宗即位後の昇進

太宗が即位すると、杜如晦は尚書省兵部の長官に任命され、蔡国公に封ぜられました。さらに、貞観二年(627年)には門下省の長官に任命され、貞観三年には尚書省の長官となり、吏部の人材選抜の職務も兼任することとなりました。この頃、杜如晦と房玄齢は共に太宗の政務を支え、唐の官僚制度や礼制の整備を行い、その成果が高く評価されました。

評価と功績

杜如晦は、その賢明さと忠誠心で太宗の信頼を集め、政治における重要な役割を果たしました。彼の影響力は非常に大きく、当時の人々からは「房杜」と並んで称賛され、その名は広く知られることとなりました。

総評

杜如晦は、太宗の政治において欠かせない存在であり、彼の知恵と能力は唐の基盤を固める上で重要な役割を果たしました。彼の登用と貢献によって、太宗は効率的かつ安定した政権を築き上げることができ、また、彼の忠義と能力は後世にも称賛されるべきものです。

以下に『貞観政要』巻一「貞観初論政要」より、**房玄齡(ほう・げんれい)および杜如晦(と・じょかい)**に関する人物記述・功績・登用背景について、指定の構成にて整理いたします。


目次

『貞観政要』巻一「貞観初論政要」より

(房玄齡と杜如晦の人物評価・登用・功績)


1. 原文

※文量が多いため、一部要約しつつ整理します。

房玄齡は斉州臨淄の人。隋に仕えていたが罪により左遷。その後、太宗が渭北を平定した際、玄齡は杖をついて軍門を訪ね、一目で太宗の信任を得て幕府記室に任じられた。

玄齡はその知己の恩に報いようと心力を尽くし、他の者が財宝を求める中で、優れた人材を先に取り立てて幕府に送り、智将・猛将を結びつけた。

その後、記室・行台などを歴任し、秦王府で十数年にわたり文書管理を担当。隠太子(太宗の兄)や巢刺王に嫌われ、高祖(太宗の父)に讒言され追放されるが、太宗は密かに玄齡と杜如晦を再び召して謀議を共にした。

政変成功後、玄齡は太子左庶子・中書令・尚書左僕射に任じられ、梁国公となる。常に謙虚に政務に尽くし、人の善を自らのことのように喜び、法令の審定にあたっては寛大を旨とした。

自身の長所を基準にせず、能力に応じて人を登用し、疎遠や身分の低さによって差別しなかったため、「良相」と評された。貞観十三年に太子少師となる。十五年在任ののち、辞職を申し出るが認められず、最終的に司空となり政務を総覧。辞意の際、太宗は「良相を失うことは両手を失うに等しい」とまで述べた。

太宗は王業の苦労と玄齡の功績を偲び、「威鳳賦」を作って玄齡に与えて称えた。

一方、杜如晦は京兆万年の人。武徳初年に秦王府の兵曹参軍となり、後に陝州の長史に就く。太宗は幕下の人材流出を憂える中、玄齡が「杜如晦こそ王佐の才」と強く推挙。太宗もこれを深く信任し、機密を預かる腹心とした。

杜は軍政の多忙な中でも剖断如流(判断の早さ)を見せ、知略に富み、玄齡と並び評価された。隠太子敗北後の論功で功績第一とされ、尚書右僕射・吏部の実務を掌り、玄齡と共に政務を分担。

典章制度の制定においても、二人はその枠組みを確定し、当時の誉れを得て「房杜(ぼうと)」と並び称された。


2. 書き下し文

玄齡は斉州臨淄の人なり。初め隋に仕え、隰の尉となる。事に坐して名を除かれ、上郡に遷る。太宗、渭北を徇地するに、玄齡、杖策して軍門に謁す。太宗、一見して旧知のごとく、渭北行軍記室参軍に署す。

玄齡、知己に感じ、心力を傾けて尽くす。時に賊寇しばしばあり、衆は金宝を求むるも、玄齡はまず人物を収めて幕府に致し、謀臣・猛将を幕内に繋ぐ。

…(中略)…

貞観元年に中書令、三年に尚書左僕射・国史の監修、梁国公に封ぜられ、実封千三百戸。百司を総任し、恭謹にして夙夜励み、心を尽くして節を貫き、一物たりとも失わんことを欲せず。

…(中略)…

杜如晦は京兆万年の人なり。武徳初に秦王府兵曹参軍となり、しばらくして陝州総管府の長史となる。太宗、幕下の人材流出を憂う。記室玄齡曰く、「…杜如晦、聡明にして識達、王佐の才なり」と。太宗、これを聞きて深く重んじ、以て心腹を寄す。

…(中略)…

貞観二年、本官を以て侍中を検校す。三年に尚書右僕射、吏部の事を知り、玄齡と共に政を掌る。台閣の規模・制度・文物は、皆この二人の定むる所なり。時に人これを称して曰く、「房・杜」と。


3. 現代語訳(まとめ)

房玄齡は隋から太宗に仕えた才臣であり、逆境を越えて登用された後は、知己の恩義に報いて全力で尽くした。人材の獲得に先見性を持ち、制度改革や官人登用、政策策定において幅広く貢献し、まさに「良相」として賞賛された。

杜如晦もまた、玄齡の推挙によって太宗に重用され、軍政・文政の両面で抜群の才を発揮し、玄齡とともに治世の骨格を支えた。

この「房・杜」体制は、貞観の治と呼ばれる政治的安定の礎となった。


4. 用語解説

  • 記室(きしつ):幕府や王府の文書事務を担当する役職。
  • 庶子(しょし):太子の補佐官。庶務や政務を担う。
  • 僕射(ぼくや):尚書省の長官で、実質的な宰相職。
  • 台閣・典章文物:政治制度・儀礼・法律・文化制度の総称。
  • 王佐の才:王を補佐するに足る卓越した政治能力。

5. 解釈と現代的意義

この人物記述は、「人を見抜く力」と「信頼して任せる勇気」が治世や組織経営においていかに重要かを示しています。特に、異なるタイプの人材を重用し、異なる役割を担わせながらも共に支え合う体制を築いた太宗の人事観は、現代のマネジメントにおいても極めて参考になります。


6. ビジネスにおける解釈と適用

  • 「見出す力と育てる力の連携」
     玄齡は人材を集め、杜如晦は的確な判断力と処理能力で支えた。創業期や変革期には、このようなタイプの異なる右腕が必要。
  • 「信頼と任せる勇気が成果を生む」
     太宗はかつて反対した者さえも信じて登用し、失敗の過去にとらわれなかった。これは人材活用における成熟した視座である。
  • 「制度構築は人によって動く」
     文物や制度の整備は、個人の力量によって推進される。仕組みを動かすのは人であるという本質がここにある。

7. ビジネス用の心得タイトル

「才を知り、人を任す──“房・杜”に学ぶ、組織を支える右腕の条件」


このように、房玄齡と杜如晦の記述は、個人の忠誠・能力・人材観の典型を示しており、「治における人材マネジメント」の実例として極めて価値ある史料です。

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