第九章「進言を奨励する態度かどうか」解説
この章は、唐の太宗(李世民)が**「真の進言を引き出す難しさ」**と向き合う姿勢を描いた場面であり、彼の治政哲学における根幹にかかわるテーマ――直言(諫言)とその受容のあり方――を扱っています。
1. 内容の要約
- 時期:貞観十八年(644年)
- 登場人物:
- 太宗(李世民):唐の皇帝
- 長孫無忌・唐倹ら:太宗の重臣・功臣
- 劉洎(りゅう・き):黄門侍郎、門下省の副長官
■ 背景
太宗は、朝臣たちに対して「自分の過失を正直に述べよ」と命じました。しかし多くの臣下は、
「陛下の治世は完璧で過失などない」
と、いわば「模範的な答え」だけを述べて沈黙します。
■ 劉洎の直言
黄門侍郎・劉洎だけが、あえて次のように苦言を呈します:
- 陛下の偉大な功績には異論はない。
- しかし、上奏者の意見が不十分であると、面前で詰問して恥をかかせている。
- これでは、誰も進言しようとしなくなるのではないか?
2. 太宗の反応
太宗はこの言葉を聞いて、
「そのとおりだ。そなたの言葉は正しい。私が改めよう」
と素直に受け入れました。
3. 分析と考察
● 表面的な賛美と実質的な忠言
- 長孫無忌らの反応は形式的で「安全な」答えでした。
- 対して劉洎は、真に帝王を思う者だけが言える本質的な批判を提示しました。
- これは、進言を求める者自身の態度が、その進言を妨げることがあるという根本的な逆説を突いています。
● 太宗の成熟
このやり取りは、太宗が**「自らの姿勢が、進言を妨げていた」と認識する自省の瞬間**です。皇帝たる者が正論に耳を傾け、自らを律するということは、どんな時代でも難しいことですが、太宗はそれを実行しています。
4. 現代への示唆
この章は、**組織・企業・政治などにおける「意見が言えない空気」**の問題を鋭く示唆します。
- 「上司が正しいことを言っていても、聞き入れる態度でなければ意見は出ない」
- 「誠実な指摘が受け止められることでこそ、本物の信頼関係が築かれる」
劉洎のような人材を活かすためには、進言を奨励する風土と、それを受け止める上位者の姿勢が欠かせません。
5. 結語
本章は、「自らの非を素直に認め、改める姿勢」の重要性を教えてくれます。
進言は、聞く耳と受け止める心がなければ生まれない。
この太宗の姿勢が、唐の貞観の治(理想政治)の基盤を支えたのです。劉洎のような真の直言が許される場こそが、優れた政(まつりごと)を可能にする――この教訓は、現代においても変わらず有効です。
『貞観政要』より(貞観十八年 太宗と劉洎の忠諫)
1. 原文:
貞觀十八年、太宗、長孫無忌らに謂いて曰:
「人臣の帝王に対する場合、多くは順従して諫めず、
甘言を用いて容(かたち)を取る。
今、私は諸卿に問う。何も隠してはならぬ。
直言して、私の得失(とくしつ)を述べよ。」
長孫無忌・房玄齡らは皆言った:
「陛下は聖明にして至徳を極められており、
愚臣が見る限り、何らの失策も見当たりません。」
このとき、黄門侍郎・劉洎(りゅうき)は答えて言った:
「陛下は乱世を治め、国家を創建され、まさに功績は万古に並ぶものです。
無忌らの言は確かに誠実な評価といえましょう。
しかし近頃、上奏した者の文言が陛下の意に沿わぬと、
陛下は面と向かってその誤りを厳しく問い詰め、
相手を恥じ入らせております。
これでは、進言を奨励するどころか、萎縮させてしまいます。」
太宗は言った:
「その通りである。卿の言、真に是なり。
今後は改めよう。」
2. 書き下し文:
貞観十八年、太宗は長孫無忌らに語って言った:
「一般に臣下は君主に対して、多くが迎合して直言せず、
耳に心地よい言葉で取り入ろうとする。
私は今、そなたたちに問う。
隠すことなく、私の誤りを率直に述べるがよい。」
長孫無忌・房玄齡らは口を揃えて答えた:
「陛下の徳は至高であり、愚臣の目から見て、落ち度などございません。」
すると黄門侍郎・劉洎が進み出て言った:
「陛下の偉業はまさに歴代の皇帝に優るものであり、無忌らの言葉も決して虚偽ではありません。
ですが、近ごろ進言した者が陛下の意向と異なる内容を述べた際、
陛下はその場で厳しく詰問し、相手に恥をかかせることがございます。
これでは、進言を奨励するどころか、意見を萎縮させることになります。」
太宗はこれを聞き、
「その通りだ。卿の言葉はまことに正しい。
今後は改めよう」と述べた。
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ):
- 「太宗は重臣たちに、“遠慮なく私の過失を述べよ”と命じた」
→ 君主自ら、批判を歓迎する姿勢を示した。 - 「しかし長孫無忌や房玄齡は“陛下には非がない”と褒めるばかりだった」
→ 迎合的な言葉であり、実質的な指摘はなかった。 - 「それに対して黄門侍郎・劉洎が、“進言した者を詰問する姿勢こそ、失策である”と指摘した」
→ 指摘そのものではなく、それに対する君主の“感情的対応”が問題だとした。 - 「太宗はこれを正しい忠言として受け入れ、態度を改めると約束した」
4. 用語解説:
- 長孫無忌(ちょうそんむき):唐の太宗の義兄で重臣。名門の政治家。
- 黄門侍郎(こうもんじろう):皇帝近侍の文官職。奏上の取次などを担う。
- 劉洎(りゅうき):唐代の忠臣・直言の士。魏徵に比肩する進言の才を持つ。
- 得失(とくしつ):政策や行動の功績と失敗。評価を述べる際の語。
- 詰問(きつもん):問い詰めること。相手に恥をかかせるような厳しい追及。
5. 全体の現代語訳(まとめ):
貞観十八年、太宗は重臣たちに「私の過ちを率直に述べてくれ」と求めた。
しかし長孫無忌らは「陛下には非がない」として何も批判せず、甘言を呈した。
そこに劉洎が進み出て、「陛下は立派な皇帝であり、彼らの言葉も誠実ですが、
進言をした者が陛下の意に沿わない内容を述べると、詰問して恥をかかせているように見えます。
これでは誰も本心を述べられません」と忠告した。
太宗はこの言葉に納得し、「その通りである。今後は改めよう」と述べた。
6. 解釈と現代的意義:
この章句は、**「忠言を求めるリーダーと、その姿勢に応える勇気ある部下」**という、
組織運営の理想的な関係性を示しています。
太宗は一見、謙虚に「指摘してほしい」と求めながら、
実際には批判に対して感情的に反応していたことを、劉洎が指摘しました。
このやりとりは、“聞く姿勢”だけでなく、“聞いたあとの反応”の重要性を教えています。
7. ビジネスにおける解釈と適用:
✅「批判を求めるなら、まず“安心して言える雰囲気”を整えよ」
発言内容よりも、リーダーの反応が組織の“心理的安全性”を左右する。
✅「迎合と忠言は似て非なるもの」
部下が褒め言葉ばかり並べるとき、リーダー自身が“批判を怖がらせていないか”を自省すべき。
✅「苦言を“恥”に変えず、“宝”に変える度量が求められる」
苦言を投げかけた相手を詰めるのではなく、その勇気を称える文化が必要。
8. ビジネス用心得タイトル:
「聞く姿勢より、受け止める力──忠言が育つ場をつくるのが真のリーダー」
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