【現代語訳】
貞観二年(628年)、太宗は側近たちにこう語った。
「私は毎日、朝廷に出て発言しようとするとき、その言葉が民衆のためになるかどうかをまず考える。だから、私は多くを語らないのだ。」
すると、給事中(天子の詔勅の伝達や政務の取り次ぎを行う官職)で、さらに**起居注(君主の言動記録)の編集も担っていた杜正倫(とせいりん)**が進み出て、次のように意見を述べた。
「君主の行動はすべて記録され、発した言葉は左史(記録係)が書き留めます。私はその職務を担っている者ですから、あえて愚直ながら申し上げます。
もし、陛下がたった一言でも道理に外れるようなことをおっしゃれば、それは千年の後までも記録として残り、陛下の徳を汚すことになります。被害を受けるのは今の人民だけではありません。
ですから、どうか言葉を慎まれるよう願います。」
この言葉に太宗は大いに感動し、杜正倫に**絹百疋(段)**を褒美として賜った。
【用語解説】
- 給事中(きゅうじちゅう):中書省に属し、皇帝に近侍して詔勅の起草・伝達を担う官職。
- 起居注(ききょちゅう):君主の日常の言動を逐一記録する公的記録。後の「実録」の前身的性格を持つ。
- 杜正倫(と・しょうりん):唐初の官僚・学者。正直で直言を厭わないことで知られた。
- 左史(さし):言動を記録する史官。君主の「言」を記録する役目。
- 絹百疋(けんひゃっぴつ):報奨の一種。1疋は絹の長さの単位(およそ40尺)、官僚への報償としてよく使われた。
【解説】
この章では、「言葉の重み」と「君主の自己規制」の重要性が強調されています。
太宗は自ら言葉を控えることを美徳として語りましたが、杜正倫はそれに対して、
- 君主の発言はすべて後世に記録される。
- 一言の道理に外れた言葉が、百姓だけでなく千年の歴史に禍を及ぼす。
と述べ、さらに一歩進んだ視点からの忠言を行っています。
このやり取りは、『貞観政要』全体を通じて繰り返し語られる「直諫の文化」の好例でもあり、唐代の政治文化の洗練度を象徴するエピソードといえます。
また、太宗がこの意見に素直に感銘を受けたこと自体が、太宗の器の大きさと「謙譲」「誠信」の実践者であることを示しています。
【この章の教訓】
- リーダーの言葉は極めて影響力が大きく、慎重さが求められる。
- 記録は後世に残り、評価の材料となる。瞬間の言葉も、永遠の影響を持つ。
- 臣下が率直に進言し、君主がそれを受け入れる文化こそが善政を生む。
コメント