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民主経営の危険を知れ

それはもう二十年以上も前のことだ。とある地方の社員百人ほどの小さな企業、F社を訪ねた。F社は十年以上にわたり赤字を続けており、そのバランスシートに記載された長期借入金の額は、驚くほど膨大だった。

これほどの多額の資金を銀行が貸すはずがない。理由を尋ねると、社長の父親であり会長を務める人物が、山林を所有しており、それを少しずつ売却して会社に貸し付けているというのだ。まさに「親バカ」としか言いようがない状況だった。

「父親の山を売り尽くしたら、その瞬間に会社は倒れるぞ」と強い口調で忠告した。すると、社長は真剣な表情で応えた。「だからこそ、一倉さんにお願いして、何とか会社を立て直したいんです。それについてですが、私の考える方法は『民主経営』です。」

「四人の部長で部長会を組織し、経営に関する重要事項を議論させています。結論が出ると、それを私のところに持ってきます。私はそれをもとに採決を下すのです。ただ、最近、その部長会の活動が停滞していて困っているので、一倉さんに教育をお願いしたいのです」と言うのだ。その話を聞いて、呆れるほかになかった。社長のその考え方こそが、長期にわたる赤字の最大の原因であることは明らかだった。

事業経営とは市場を相手にした活動そのものだ。市場での競争に勝ち抜いていくのが企業の本質であり、その責任を果たすのは社長しかいない。社長が経営を担わずに一体誰がやるというのか。他の誰にも代わりは務まらない、まさに社長自身がやるべき仕事なのだ。

市場を全く知らない社員に、どうやって市場活動を任せるというのか。この一点を考えただけでも、「民主経営」なるものが成り立つはずがないことは明白だ。市場を理解し、決断を下すべきなのは、他ならぬ社長自身である。

世間で言われている「民主経営」とは、実際のところ「民主管理」に過ぎない。経営とは企業の外部を相手にした活動であり、一方で管理は企業内部の話だ。それを混同し、経営と管理を区別せずにごちゃごちゃにしているのが現状なのだ。

経営と管理の違いすら理解していないF社の社長に、まともな経営ができるわけがなかった。これこそが、F社が赤字から抜け出せない根本的な原因だった。私は、四人の部長に短時間だけ会い、部長会で具体的にどのようなことを話し合っているのかを尋ねた。

部長会での議題は、一年半も前から就業規則の改定と賃金制度の再検討ばかりだった。こんなテーマなら、いくらでも議論を続けられる。だが、企業経営の本質とは何の関係もない。なぜこんな馬鹿げた状況に陥ったのか。その原因は、社長自身が経営の本質を見失い、部長たちに無駄な議題を押し付けていることに他ならない。

人は、上司から筋の通らない責任を押し付けられると、どのように行動するだろうか。多くの場合、それは「責任回避」に走るものだ。F社の部長たちも同様で、無意味な議題に時間を費やすことで、責任を追及されるリスクを避けようとしている。その結果、議題は就業規則や賃金制度の再検討といった無害なテーマに終始し、何の成果も生まない状況に陥っていたのだ。

下手な結論を出してそれが採用され、もし失敗でもすれば、部長会は社長に責任を追及されることになる。そんなリスクを誰が喜んで背負うだろうか。「君子危うきに近寄らず」とばかりに、彼らは無難な議題に終始し、実質的な決断を避け続けている。こうした状況を見る限り、F社には経営の「ケ」の字すら存在していなかったと言える。

経営が全く機能していないF社の中で、ただ一人、常務だけが危機感を抱いていた。初めて会った私に対して、その胸の内を率直に語ってくれたのだ。常務は社長の身内であり、会長でもある父親から「社長を支えてやってくれ」と頼まれているという。だが、会社の現状を前に、彼はその重責に押しつぶされそうになっていた。

常務は、どうにかして社長を助け、会社を立て直さなければならない立場にいる。しかし、肝心の社長が何も行動を起こさない。その一方で、自分が社長を差し置いて動くわけにもいかないというジレンマに陥っていた。彼の立場はまさに板挟みであり、その苦悩がひしひしと伝わってきた。

常務が「社長、これを今やらなければ手遅れになります。どうか決断してください」と訴えても、社長の反応は決まっている。「部長会の意向はどうなのか」と返されるだけだ。そして、まだ部長会で結論が出ていないと伝えると、「それなら部長会を急がせろ」と、責任を丸投げするような態度を崩さない。まさに取りつく島もない状況だった。

部長会に何かを決められるはずがない。それを知りつつも、社長の指示に従うしかない常務は、完全に身動きが取れなくなっていた。その間にも、会社の状況はますます悪化していく。進退窮まった常務は、その苦しい胸の内を語りながら涙を流していた。

そして、最後に絞り出すような声でこう言った。「一倉さん、民主経営ほど恐ろしいものはありませんね」。その言葉は、血を吐くような常務の真剣な叫びだった。二十年以上が経った今でも、その一言は私の心に深く刻み込まれている。

民主経営がもたらす危険性は、表面的な「平等な意見の尊重」に潜むリーダーシップの欠如にある。これは事業活動が本来持つ「市場活動」から乖離し、社内での責任回避や意思決定の停滞を生む構造的な問題を引き起こしてしまう。F社の例がそれを如実に物語っている。

F社の社長が採用した「民主経営」は、一見して公平な意見交換の場を提供しているように見えるが、実は本質的な「経営責任の放棄」とも言える状況に陥っていた。部長会に経営判断を委ねることで、社長自身が市場活動の責任を果たさず、全体の方向性を失ってしまっていたのだ。社長の意思決定の不在は、企業が市場で生き残る力を削ぎ落とし、組織全体を内向きにし、根本的な赤字体質の解消を不可能にしていた。

また、この「民主経営」は、部長たちにも消極的な責任回避の行動を助長した。彼らにとって、事業の方向性を左右する意思決定はリスクを伴うものであり、結果として無難な就業規則や賃金制度の議論に終始し、具体的な経営活動の進展はないままだった。このような議論の延長は、会社にとって成長の機会を奪い、社内に停滞感を生み出す。誰もリスクを冒さず、会社の未来に対する責任感が薄れることで、事業の悪化が進行していくのだ。

一方、唯一危機感を持っていた常務は、社長や部長会の形式的な運営方針に縛られ、具体的なアクションを起こすことができなかった。これこそ、民主経営の陥る大きな罠だ。誰もが均等に意見を持ち、参加できる組織が本来の意味を失い、最終的な意思決定者が「市場活動」という本質的な経営責任を負わない場合、結果として会社全体が致命的なダメージを受ける。

このエピソードが示すのは、企業において経営者が果たすべき「明確なリーダーシップの必要性」だ。経営者は市場を読み、迅速かつ的確な意思決定を行い、責任を持って企業を牽引する立場にある。民主的な運営と、実際の「市場活動」に基づく決断とが混同されることで、企業の未来がいかに危うくなるか。F社の事例が警鐘を鳴らしているように、経営者はリーダーシップを持って市場に対峙しなければならない。

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