証券業界において、業績の大半が市況に左右される現実は避けられない。しかし、市況の影響に依存し続ける経営は、長期的な成長を阻む要因にもなる。D証券では、これまでの短期志向から脱却し、長期的視野に立った経営を実現するため、長期事業構想書の策定に取り組んだ。本記事では、この構想書を通じてD社がどのように経営を転換し、組織全体が変革を遂げたのかを紹介する。
D社の経営改革の始まり
市況への依存からの脱却
長期事業構想書の力
D証券をお手伝いした際のことだ。初めに社長からお話を伺っているうちに、この会社では、まず長期計画から手を付けるべきだと判断した。これは非常に珍しいケースである。通常、ほとんどの会社では、まず足元を固めることが優先されるべきであり、それが必要な場合が圧倒的に多いからである。
私はD社長にこう申し上げた。「将来のD社の姿をどうしたいのか、それを社長ご自身がよく考えて決めることが大切です。その未来像を目標とし、そこに到達するための五年間の青写真を描くことです。」
これを受けて、D社長は「どんな世の中になっても潰れない会社」を目指し、まず基本構想の設定に取りかかった。会社の未来像を具体的に描くことが、計画作成の第一歩となったのである。
証券業界は、典型的な「市況産業」である。業績の約80%は市況に左右されると言っても過言ではない。そのため、業績評価には常に市況が絡んでくる。
たとえば、「先期の実績は非常に良好だったが、これは市況が好調だったおかげだ」「今期の業績は不調だが、それは我々の努力不足だけではなく、市況の悪化が原因だ」という具合である。結局のところ、業績が良くても悪くても、その理由は常に市況に帰されてしまう。このような状況では、会社の独自の努力や工夫が正当に評価されにくくなりがちである。
D社長はこう語った。「『すべて市況のせい』にしていては、いつまでたっても相場師的な経営から脱却できない。確かに業績の80%は市況に左右されるが、残りの20%をどう経営するかで、長期的には大きな差が生まれる。その20%に取り組まなければ、優良証券会社とボロ証券会社の違いが生まれるはずがない。我が社は、市況以外の20%にどのように取り組むかを長期的に考える必要がある。」
さらに、D社長は証券業界を「洪水」と「干ばつ」の二極に例え、それらの極端な市況にどう対応するかを明確にするのが、自分の責務だと述べた。この視点から、社長としての役割を冷静に捉え、長期的な方針を策定する意欲を示したのである。
「山に木を植え、ダムを築いて洪水に備える。そして、用水路を整備して水の有効利用を図り、干ばつにも備えなければならない。」D社長はこのように、市況の変動という「洪水」と「干ばつ」に対して、長期的な視点で準備を整える必要性を強調したのだ。これこそが、証券業界における安定した経営基盤を築くための具体的な取り組みを示す象徴的な比喩であった。
まず、D社長の言う「植林とダム建設」にあたるのが、営業資産を中心に据えながら、副次的に債券の活用を進めることである。これらの充実を積極的に図ることが、安定した基盤づくりにつながる。
次に「用水路」とは、手数料収入、金融収入、売買益のことである。これらを整備して、効率的かつ安定的な収益源として機能させていく。具体的には、手数料収入で総費用を賄える構造を目指すということだ。つまり、手数料以外の収入はすべて利益に回せるような経営を実現することで、会社の収益基盤を一層強化しようという方針である。
次に設定したのは、資産に関する具体的な目標である。これは、税引後利益に対する社外流出の割合や純資産額、増資計画および払込資本金額などを含む。また、生産性向上を目指し、要員数や給与の設定、さらには営業拠点としての店舗数やその配置についても明確な目標を掲げた。
最後に、業界内でのランクと市場占有率の目標を設定し、これを長期計画の締めくくりとした。これらの目標は、D社の将来像を具体化し、全社で共有するための指針として機能するものとした。
このような構想と諸目標は、まず「長期事業構想書」(後述)の粗案としてまとめられた。その後、繰り返し検討が重ねられ、わずか2カ月の間に4回も書き換えられた。その間、D社長はこの作業に全力を注ぎ、毎回書き換えるたびに私に電話をかけてきて、「確認してくれ」と依頼するほどの熱意を見せた。その真剣さには心から感服させられた。
D社長はこう語った。「社長になってから、こんなに考えたことはありません。正直なところ、もうクタクタです。でも、この表(長期事業構想書)は、本当に社長に『考えろ、考えろ』と尻を叩いてくれるものですね。いやでも考えざるを得ませんでした。そのおかげで、我が社の未来像が立派に仕上がりました。それだけでなく、事業経営についての自信と意欲が、以前より格段に高まりました。」
その言葉には、D社長の努力と熱意、そして成果への充実感がにじみ出ていた。長期事業構想書がもたらす力を、改めて実感させられる瞬間だった。
この長期事業構想書は、D社の短期経営計画の冒頭に掲げられ、全社に公表された。その結果、この構想書と短期経営計画書は、D社の社員の意識と態度を大きく変えるきっかけとなった。
幹部社員たちは、意見を求められる前から自発的に前向きな提案をするようになった。「この目標を達成するために、我が部門の組織をこう改編したい」「従来の得意先だけでは目標達成が難しい。新たにこうした得意先を開拓したい」など、具体的な改善案や行動計画が次々と生まれてきた。
これらの動きを見たD社長は、大いに喜びを感じ、社員の変化に手応えを感じていた。長期事業構想書の力は、単なる計画書にとどまらず、組織全体の活力を引き出す原動力となったのである。
D社長はこう語った。「社員が本当によくやってくれるので、僕が言うことは何もありません。それだけではなく、日々の株価の動きが全く気にならなくなりました。」
その理由は明確だ。社長の頭の中には、明確に描かれた「我が社の未来像」があり、それを実現するために自分が何をすべきかを考え、行動することに集中できるようになったからだ。その結果、短期的な株価の変動に一喜一憂する必要がなくなり、長期的な視野で経営に臨む姿勢が確立されたのである。
長期事業構想の策定を通じて、D社は相場師的な短期志向の経営から脱却し、長期的な展望を持つ次元の高い本物の経営へと大きく転換を遂げたのである。この変化は、企業としての基盤強化と未来への確かな一歩を象徴するものであった。
まとめ
D証券は、長期事業構想書を策定し、それを全社で共有することで、相場師的な短期志向から次元の高い長期的経営へと移行した。社員一人ひとりが未来の目標に向けて主体的に行動し、組織全体が活性化するという大きな成果を上げたのである。この取り組みは、単なる計画の策定にとどまらず、会社の未来を明確に描き、全員がその実現に向けて動き出すための強力な原動力となった。
D証券のケースは、株価などの短期的な市場変動に左右されず、長期的なビジョンに基づいて経営を進めることの重要性を示しています。社長が長期的な事業構想に真剣に取り組んだことで、会社全体が将来の目標を共有し、短期的な相場の上下に影響されない安定した経営基盤が築かれました。
主なポイント
- 市況依存の脱却
- 証券業界は、市況に影響されやすく、短期的な株価の上下に一喜一憂しがちですが、D証券は市況以外の部分での経営改善を目指しました。
- 会社が本質的な強みを築くことで、市況に左右されない安定経営が可能になります。
- 長期的な目標設定
- 「どんな世の中になってもつぶれない会社」を目指し、営業資産の充実や債券の副業化などの戦略を立て、収益の基盤を安定させました。
- 手数料収入で総費用を賄う構造を目指し、それ以外の収入を純粋な利益とする考え方により、収益力の強化に取り組みました。
- 社員の意識と態度の変化
- 長期事業構想と短期経営計画を全社に公表したことで、社員が自発的に新しいアイデアや改善策を提案するようになりました。
- 経営ビジョンを共有することで、社員が自主的に目標達成に向かって動き出し、組織全体の士気が向上しました。
- 相場師的経営からの脱却
- 長期的な未来像に基づく経営に転換したことで、短期的な株価の変動に惑わされることなく、社長自身も日々の株価の動きに対しての不安がなくなりました。
D証券は、長期的な構想と明確なビジョンを持つことで、安定した経営へと移行し、社員の士気向上と組織の活性化にもつなげた良い事例です。
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