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働くことが「人をつくる」

今回は、働くことが人間形成していく「人をつくる」ということについて記載していきます。

目次

働くことが「人をつくる」

「よく生きる」ためには、「よく働くこと」がもっとも大切なことです。それは、心を高め、人格を磨いてくれる「修行」であると言っても過言ではありません。

※修行と聞くと、つまらないものに感じるかもしれませんが、この修行が人生を豊かにするために非常に重要です。

稲盛さんが、十数年ぐらい前に、ドイツ領事の方と対談した際に、次のようなお話を聞かれたそうです。

「労働の意義は、業績の追求にのみあるのではなく、個人の内的完成にこそある」

※労働の意義=個人の成功にある。

働くということの最大の目的は、労働に従事する私たち自身の心を練磨し、人間性を高めることにある。

※働くことの最大の目的=自身の人間性を高めること

つまり、ただひたむきに、目の前の自分のなすべき仕事に打ち込み、精魂を込めて働く。そのことで、私たちは自らの内面を耕し、深く厚みのある人格をつくり上げることができると言われるのです。

※なすべき仕事に精魂込め、一生懸命全力で取り組むこと。そのことで内面を耕し、深く厚みのある人格をつくりあげることができる。そして人間的に1回りも2回りも大きくなっていくということです。

「働くことが、人をつくる」――すなわち日々の仕事にしっかりと励むことによって、自己を確立し、人間的な完成に近づいていく。

そのような例は、古今東西を問わず、枚挙にいとまがありません。世の偉人伝をひもとくと、必ずそのような事実に行き当たります。

功成り名を遂げた誰もが、例外なく、努力を惜しまず、辛苦を重ねながら、自分のなすべき仕事に没頭しています。

そして、その果てしのない努力を通じて、偉大な功績を成し遂げるとともに、素晴らしい人間性をもまたわがものとしているのです。このような話もあります。

南太平洋・ニューブリテン島のある未開部族の村落では、「労働は美徳」という考え方があるそうです。

そこでは、「よく働くことが、よい心をつくる」「よき仕事は、よき心から生まれる」というシンプルな労働観を中心に生活が営まれているというのです。

その村落のおもな労働は、焼畑農業によるタロイモの栽培です。そこには「仕事は苦役」という概念がまったく存在しないのです。

村人たちが働くことを通じて目指すものは、「仕事の美的成就」と「人格の陶冶」、つまり、美しく仕事を仕上げること、そして、それを通じて人格を磨くことだと言います。

村人たちは、畑の配置、作物の出来ばえ、土の匂いといったものを評価し合うのだそうです。

たとえば、よい匂いのする畑は「豊穣」であり、悪い匂いのする畑は「不毛」であるといった具合です。

このようにして、畑作を立派に仕上げた人は、村人全員からその「人格の高まり」について、高く評価されることになります。

つまり、労働の結果である畑や作物の出来ばえを通じて、その人間の人格の高さが判断されるのです。

畑仕事を立派に行なった人、すなわち「いい仕事」をした人は、人格的にも「高い人」であり、まさに「人格者」であるという評価を受けることになります。

彼らにとって、働くことは生活の糧を得る手段であると同時に、心を磨き、人間性を高める手段でもあるのです。

「いい仕事は、いい人間によってなされる」という、シンプルですが大切な労働観が、厳然と原始社会から生きているというわけです。

こういう話を聞くと、懸命に働かなければ生きていけない原始社会のほうが、労働の本来の意義を正しく理解しているように思えます。

一方、人類に近代文明をもたらした西洋の社会には、キリスト教の思想に端を発した、「労働は苦役である」という考え方が基本にあります。

聖書の冒頭にあるアダムとイブのエピソードを見ても、それは明らかです。人類の始祖である彼らは、神から禁じられていた木の実を食べたため、楽園であるエデンの園から追放されてしまいます。

楽園にいる間は働く必要はなかったわけですが、追放されたことで、食べ物にありつくためには苦しい思いをしながら働かなくてはならなくなったのです。

この有名な話には、人間はいわゆる「原罪」を償うために、労働という罰を与えられたとする、働くことに対する否定的なイメージや意識がつきまとっています。

つまり、欧米の人にとっては、働くことはもともと苦痛に満ちた、忌むべき行為なのです。

そこから「仕事はなるべく短い時間にすませ、なるべく多くの報酬を得たほうがいい」とする、近代の労働観が生まれてきたようにも思えます。

しかし、日本にはもともと、そのような労働観はありませんでした。

それどころか、働くことはたしかにつらいことも伴いますが、それ以上に、喜びや誇り、生きがいを与えてくれる、尊厳ある行為だと考えられてきたのです。

そのため、かつて日本人は、職業の別を問わず、朝から晩まで惜しみなく働き続けました。

たとえ日用品をつくる職人であろうとも、自分の技を磨き、素晴らしい日用品をつくることに、なんとも言えない誇らしい充実感のようなものを感じていたのです。

それは、働くことは、技を磨くのみならず、心を磨く修行でもあり、自己実現や人間形成に通じる「精進」の場であるとする、深みのある労働観、人生観を、多くの日本人が持っていたからと言ってもいいでしょう。

※働くことは、技を磨くのみならず、心を磨く修行でもあり、自己実現や人間形成に通じる「精進の場」であるとする、深みのある労働観、人生観を、多くの日本人が持っていた。

しかし近年、社会の西洋化に伴い、日本人の労働観も大きく変貌を遂げてしまいました。

※社会の西洋化に伴い、日本の労働観も大きく変わってしまったのです。

それが、この章の冒頭で述べた、生活の糧を得るために働くという、いわば「労働」を必要悪ととらえる考え方です。

※「生計を立てるためのみ働く」はという考え方は、労働を必要悪としての位置にしてしまったのです。

そのため、多くの日本人が、労働を単につらく苦しいだけのものとして、さらに忌み嫌うようになってしまったのです。

※つまり、多くの日本人が労働を単につらく苦しい生計を立てるためだけのものとしてとらえ、忌み嫌うようになりました。本来は崇高である「働く」という本来を意味を失ってしまったといえます。

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