MENU

人材待望論の誤りを知れ

M社を訪れた際、事務所の壁に貼られた大きな紙が目に飛び込んできた。そこには「一人一人が経営者」と書かれていた。この標語こそが、社長の搾取的な思想を如実に物語っており、会社の業績が低迷している原因でもある。社員には経営者としての意識を求めながら、待遇はただの従業員のまま据え置く。この矛盾が搾取でなくて何だというのか。同様に、人材をただ待ち望む姿勢もまた、同じ問題を孕んでいる。

M社長はこう語る。「企業は人なりといわれています。だからこそ、私は人材育成に執念を燃やしているのです。私の願いは、社員全員が課長クラスの能力を身につけることです」と。しかし、これこそが搾取の理論そのものだ。社員に高度な能力を求めながら、それに見合う待遇や責任を与えないのなら、それはただの美辞麗句にすぎない。

たとえ全員が課長クラスの能力を身につけたとしても、全員が課長になれるわけではない。現実には、大部分の社員は平社員のままである。能力は課長並み、しかし待遇は平社員のままでは、やがて不満を抱えた社員たちは会社を去っていくだろう。それが繰り返されれば、いずれ会社は立ち行かなくなる。この状況に潜む矛盾を見抜けないところに、「搾取の思想」が根付いているのだ。

そもそも、「人材教育」という考え方自体が根本的に間違っている。真の人材とは、他人に教育されるのを待つのではなく、自ら学び、自ら努力し、自らを高めていく存在だ。他者に依存する前提で語られる「人材育成」は、単なる甘えの裏返しであり、本来の意味での人材とはほど遠いものだと言える。

教育を必要とする人は、たとえ教育を受けて一定の成果を上げたとしても、真の意味での人材にはなり得ない。本当の人材とは、教育に頼ることなく、自ら努力し、主体的に自分を高め続けていく人である。教育を受けることが前提となる時点で、その人は「人材」ではなく、単なる「素材」に過ぎない。

こうした真の人材は、長く会社に留まることはない。いずれ独立し、自らの道を切り開いて会社を去っていく存在だ。人材は教育によって作られるものではなく、もしそのような人物が現れたとしても、いずれ会社の枠を超えて飛び立つのが自然な流れである。したがって、「会社の中に人材はいない」というのが、経営者として正しい現実認識と言えるだろう。

そうであるなら、社長は「人材待望論」を完全に捨て去るべきだ。人材に期待するのではなく、自らが全力で努力する以外に道はない。その姿勢を示すことで、社長の努力に触発され、同じように懸命に努力する社員が必ず現れる。その過程で、社員は自ら成長し、真の人材へと育っていく。このようにして生まれた人材こそが本物であり、社長が心から信頼できる存在となるのである。

人材に関する正しい認識とは、人材は期待しても教育しても得られるものではない、ということだ。唯一の方法は、社長自らが懸命に努力し、その姿を示し続けることだ。その結果として、真の人材が育ち、現れる。これこそが、人材に対する本質的で現実的な理解である。

「人材待望論」の誤りは、社員に経営者のような意識や能力を求めながらも、実際の待遇や責任は与えないという矛盾にある。M社の社長が「一人一人が経営者」や「全員課長の能力を持つべき」と掲げていたことは、社員に過大な期待をかける一方で、その結果、平社員としての待遇しか提供しない「搾取の思想」を露呈している。

本質的に、人材とは外部からの教育や指導を必要とせず、自ら成長していく人物を指す。自分の力で学び、努力し、自己を高めていくのが真の人材であり、そのような人は往々にして企業内に長くとどまらない。成長すれば独立するか、他の機会を求めて会社を去っていくことが多いため、「企業内に人材は残らない」という認識を持つことが社長の正しい理解である。

この考え方に立てば、社長は「人材を待つ」「人材を育成する」という考え方を捨て、自らが全力で努力することに集中すべきだ。真の人材は、社長が懸命に努力し、模範を示すことでその姿勢に影響を受け、自発的に努力する者たちから自然に生まれるものである。こうして育つ人材は、社長が心から信頼できる「本物の人材」であり、彼らが企業の未来を支える存在になる。

したがって、社長の「人材待望論」は、誤った前提に基づくものであり、正しい人材育成とは「社長自身が懸命に努力すること」を通じて生まれるものだ。人材とは、教育によってつくるものではなく、社長の努力と模範によってのみ自然に生まれてくるものである。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次