目次
【マインド・習慣】働く心得
- 「心を高める」ために働く ──なぜ働くのか
「なぜ働くのか」「何のために働くのか」――多くの人が今、働くことの意義やその目的を見失っているようです。 - 日々の仕事を進めるための技術やマニュアルは、あふれるほど用意されているのに、働くということに込められた、根本的な価値を明らかにすることは、ないがしろにされてきました。
- そのため、今、若い人たちの間で、労働を嫌い、厭い、できるだけ回避しようとする傾向が顕著になっています。
- たとえば、「一生懸命働く」「必死に仕事をする」といったことを意味がないとか、格好悪いと冷笑する人さえ少なくありません。
- 本当は、会社に縛られず、プライベートな時間を大切にして、自分の趣味に没頭していたい。そのような生き方は、豊かな時代環境を背景に、今や若い人の間に浸透してしまったようです。
- このようにして、今多くの人が、「働くこと」の根源的な意味を見失い、「働くこと」そのものに、真正面から向き合っていないように思うのです。
- 働くことの意義を理解し、一生懸命に働くことで、「幸福な人生」を送ることができることを――。
- 私は、働くことは「万病に効く薬」――あらゆる試練を克服し、人生を好転させていくことができる、妙薬(素晴らしい薬)だと思っています。
- 自分が望んだり、招いたりしたわけでもないのに、思いもかけない不幸が次々に襲ってきます。そのような苦難や不幸に翻弄されるとき、私たちは自らの運命を恨み、つい打ちひしがれそうになってしまうものです。
- しかし、「働く」こと自体に、そのような過酷な運命を克服し、人生を明るく希望あふれるものにしていく、素晴らしい力が秘められているのです。
- それは、私自身の考えを改め、ただ一生懸命に働くことでした。
- すると不思議なことに、苦難や挫折の方向にしか回転していかなかった私の人生の歯車が、よい方向へと逆回転をし始めたのです。そして、その後の私の人生は、自分自身でも信じられないほど、素晴らしく希望あふれるものへと変貌を遂げていきました。
- そのような方には、「働く」ということは、試練を克服し、運命を好転させてくれる、まさに「万病に効く薬」なのだということを、ぜひ理解していただきたいと思います。
- そして、今の自分の仕事に、もっと前向きに、できれば無我夢中になるまで打ち込んでみてください。そうすれば必ず、苦難や挫折を克服することができるばかりか、想像もしなかったような、新しい未来が開けてくるはずです。
- 何のために働くのか――。その理由を、「生活の糧を得るため」と考えている人がたくさんいます。食うがために必要な報酬を得ることこそが労働の価値であり、働くことの第一義であるというわけです。
- もちろん、「生活の糧を得る」ことが、働くということの大切な理由の一つであることは間違いありません。ただ、私たちが一生懸命に働くのは、そのためだけではないはずです。
- 人間は、自らの心を高めるために働く――私はそう考えています。
- 「心を高める」ということは、お坊さんが厳しい修行に長年努めてもできないほど、たいへん難しいことなのですが、働くことには、それを成し遂げるだけの大きな力があるのです。
- 働くことの意義が、ここにあります。
- 日々、一生懸命に働くことには、私たちの心を鍛え、人間性を高めてくれる、素晴らしい作用があるのです。
- 「木には命が宿っている。その命が語りかけてくる声に耳を傾けながら仕事をしなければならない」「樹齢千年の木を使うからには、千年の月日に耐えるような立派な仕事をしなければならない」――棟梁は、そのようにおっしゃっていました。
- このような心に染み入るような言葉は、生涯を通じて、仕事と真正面から向き合い、努力を重ねてきた方でなければ、とても口にできるものではありません。
- ひたすら働き続けることを通じて、心を練り上げてきた人間だけが持つ、人格の重みや揺るぎない存在感――そういうものに接するたびに、私は働くという行為の尊さに改めて思いを馳せるのです。
- 働くことは人間を鍛え、心を磨き、「人生において価値あるもの」をつかみ取るための尊くて、もっとも重要な行為であることを――。
- 働くことが「人をつくる」
- 「よく生きる」ためには、「よく働くこと」がもっとも大切なことです。それは、心を高め、人格を磨いてくれる「修行」であると言っても過言ではありません。
- 「労働の意義は、業績の追求にのみあるのではなく、個人の内的完成にこそある」 働くということの最大の目的は、労働に従事する私たち自身の心を練磨し、人間性を高めることにある。
- 「働くことが、人をつくる」――すなわち日々の仕事にしっかりと励むことによって、自己を確立し、人間的な完成に近づいていく。
- そこでは、「よく働くことが、よい心をつくる」「よき仕事は、よき心から生まれる」
- 仕事を立派に行なった人、すなわち「いい仕事」をした人は、人格的にも「高い人」であり、まさに「人格者」であるという評価を受けることになります。
- 彼らにとって、働くことは生活の糧を得る手段であると同時に、心を磨き、人間性を高める手段でもあるのです。
- 「いい仕事は、いい人間によってなされる」という、シンプルですが大切な労働観が、厳然と原始社会から生きているというわけです。
- こういう話を聞くと、懸命に働かなければ生きていけない原始社会のほうが、労働の本来の意義を正しく理解しているように思えます。
- 一方、人類に近代文明をもたらした西洋の社会には、キリスト教の思想に端を発した、「労働は苦役である」という考え方が基本にあります。
- 楽園にいる間は働く必要はなかったわけですが、追放されたことで、食べ物にありつくためには苦しい思いをしながら働かなくてはならなくなったのです。
- この有名な話には、人間はいわゆる「原罪」を償うために、労働という罰を与えられたとする、働くことに対する否定的なイメージや意識がつきまとっています。つまり、欧米の人にとっては、働くことはもともと苦痛に満ちた、忌むべき行為なのです。
- そこから「仕事はなるべく短い時間にすませ、なるべく多くの報酬を得たほうがいい」とする、近代の労働観が生まれてきたようにも思えます。
- しかし、日本にはもともと、そのような労働観はありませんでした。それどころか、働くことはたしかにつらいことも伴いますが、それ以上に、喜びや誇り、生きがいを与えてくれる、尊厳ある行為だと考えられてきたのです。
- それは、働くことは、技を磨くのみならず、心を磨く修行でもあり、自己実現や人間形成に通じる「精進」の場であるとする、深みのある労働観、人生観を、多くの日本人が持っていたからと言ってもいいでしょう。
しかし近年、社会の西洋化に伴い、日本人の労働観も大きく変貌を遂げてしまいました。それが、この章の冒頭で述べた、生活の糧を得るために働くという、いわば「労働」を必要悪ととらえる考え方です。 - そのため、多くの日本人が、労働を単につらく苦しいだけのものとして、さらに忌み嫌うようになってしまったのです。
- もちろん、かく言う私も、もともと働くことが好きだったわけではありません。ましてや働くことで遭遇する苦労などとんでもないと考えていました。
- わけときの難儀は、買てでんせえ(若いときの苦労は買ってでもしなさい)
- 愚痴を口にし、不満を抱くことをやめて、ともかく目の前にある自分の仕事に集中し、心底没頭してみようと、腹をくくり腰を据えて、はじめて「働くこと」と真正面から本気で格闘してみることにしたのです。
- ど真剣に働く――「人生を好転させる」法
それは一生懸命に仕事に打ち込み、苦しみ抜いている私の姿を見た神様が憐れみ、憐れみ、知恵を授けてくれた、そう表現するしかできないように思うのです。
「神様が手を差し伸べたくなるほどに、一途に仕事に打ち込め。そうすれば、どんな困難な局面でも、きっと神の助けがあり、成功することができる」 - ちょうど冬の寒さが厳しければ厳しいほど、桜が美しい花を咲かせるのと同じように、悩みや苦しみを体験しなければ、人は大きく伸びないし、本当の幸福をつかむことができないのでしょう。
- 私の場合も、人生において経験してきた、数え切れないくらいたくさんの苦労や挫折は、ちょうどオセロの石が一気に黒から白に返るかのように、後にすべて成功の土台となってくれました。
- 今、振り返ると、過去に苦しいと思えたことが、後になっていい結果を招いていることに気づかされるのです。そう考えれば、人生における苦難や挫折、それこそが私の人生の起点であり、最大の「幸運」であったのかもしれません。
- 逆境にあっても、愚直に懸命に働き続けたことが、今の私のすべてをつくる基礎となってくれたのです。順境なら「よし」。逆境なら「なおよし」――。
自分の環境、境遇を前向きにとらえ、いかなるときでも、努力を重ね、懸命に働き続けることが大切なのです。 - 一見不幸なように見えて、じつは幸せなこと
- 懸命に働くことが、想像もできないほど、素晴らしい未来を人生にもたらしてくれるということを頭でいくら理解しても、もともと人間は、働くことが嫌いです。「仕事は嫌いだ」「できれば働きたくない」という気持ちが、どうしても頭をもたげてきます。
- それは、元来人間が放っておけば易きに流れ、できることなら苦労など避けてでも通り過ぎてしまいたいと考えてしまう生き物だからです。
- そのような本能に根ざした、安楽を求める習性のようなものは、戦前戦中時代に育った私などにとっても、また現代という豊かで平和な時代を謳歌する若者にとっても、基本的に変わりはないように思います。
- 今と昔が大きく異なるのは、かつて私たちの時代には、イヤイヤながらでも働かざるを得ないような状況があったということかもしれません。
- 私が青年時代を過ごしたころの日本は、今よりもはるかに厳しい社会環境にあって、好むと好まざるとにかかわらず、一生懸命に働かなくては、とても食べていくことさえできませんでした。
- また、今のように、自分の好きな仕事、自分の適性に合った職場を求めるなどということも難しいことでした。
- 職のえり好みなどせず、無条件に親の仕事を継ぐか、働けるところがあれば、どんな仕事であれ従事するのが当たり前でした。
- さらに一度就職した会社を簡単に辞めるようなことも、社会通念上からはけっしてよしとされていませんでした。
- つまり、働くこと、働き続けるということは、本人の意思とは無関係に存在する、一種の社会的要請、あるいは義務であり、そこに個人の裁量や思惑が働く余地は、ほとんど存在しなかったのです。
- そのようなことは、今の時代と比較して、一見不幸なように見えて、じつは幸せなことだったのかもしれません。
- なぜなら、いやおうなく働き続けることで、誰もが知らず知らずのうちに、人生から「万病に効く薬」を得ていたからです。
- すなわち、イヤイヤながらでも必死に働くことを通じて、弱い心を鍛え、人間性を高め、幸福な人生を生きるきっかけをつかむことができていたのです。
- まず働くことが大切
- 現在は、平和で豊かな時代となり、仕事を強要されることがなくなってしまいました。
- そのような現代において、懸命に働くことをせず、怠惰に生きることが、人生に何をもたらすのかということを、改めて真剣に考えるべきです。たとえば、あなたが宝くじに当たって、一生、遊んで暮らせるだけの大金が手に入ったとしましょう。しかし、その幸運が本当の幸福をもたらしてくれるものではないことに、必ず気づくはずです。目標もなく、働くこともせず毎日遊んで暮らせる。そのような自堕落な生活を長年続ければ、人間として成長することもできないどころか、きっと人間としての性根を腐らせてしまうことでしょう。安楽が心地よいのは、その前提として、労働があるからに他なりません。毎日、一生懸命に働き、その努力が報われるからこそ、人生の時間がより楽しく貴重に感じられるのです。
- ちょうど長い夜が終わり、夜明けのときが訪れるように、喜びや幸福が苦労の向こうから姿を現してくる、それが労働を通じた人生の姿というものなのです。
- だからこそ、私は上場のとき、「創業のときの初心に返って、さらに社員と一緒に汗みどろ、粉まみれになって、がんばろう!」――そのように社員に説き、また自分自身、決意を新たにしたことを今もよく覚えています。
- 「愚直に、真面目に、地道に、誠実に」働け
- 人が易きにつき、おごり高ぶるようになってしまいがちなのは、人間が煩悩に満ちた生き物であるからです。
- 中でも「欲望」「怒り」「愚痴」の三つは、卑しい心、つまり人間を苦しめる煩悩の最たるもので、心にからみついて離れず、取り払おうとしてもなかなか拭い去ることはできません。お釈迦様は、この三つを「三毒」と呼ばれ、人間を誤った行動に導く諸悪の根源だとされています。
- 「人よりも多くの金銭を手にしたい」「人よりも高く評価されたい」――このような「欲望」は誰の心にも潜んでいて、それがかなわないとなると、人は「怒り」を覚え、「なぜ思った通りにならないのか」と「愚痴」や「不平不満」をこぼすようになる。
- 人間とは、つねにこの三毒に振り回されて生きている、因果な生き物なのです。生きていくうえで、この三毒をまったくゼロにすることは不可能なことです。
- なぜなら、三毒は、肉体を持った人間が生きていくためにはどうしても必要な心だからです。人間が生物として生きていくうえで必要だからと、自然が本能として与えてくれたものなのです。
- たとえば、自分という存在を守り、維持していくためには、食欲をはじめとする「欲望」や、自分を攻撃する者への「怒り」、さらには自分が思うような状態でないことに対する「不満」などを払拭することはできません。
- しかし、それが過剰になってはいけないのです。
- だからこそ、三毒を完全に除去できないまでも、まずはその毒素を薄めるように努めていかなければならないのです。そのための唯一無二の方法と言っていいのが、一生懸命に「働くこと」なのです。
- 自分に与えられた仕事に、愚直に、真面目に、地道に、誠実に取り組み続けることで、自然と欲望を抑えることができます。
- 夢中になって仕事に打ち込むことにより、怒りを鎮め、愚痴を慎むこともできるのです。また、そのように日々努めていくことで、自分の人間性も少しずつ向上させていくことができるのです。
- その意味では、「働くこと」は、修行に似ています。
- 実際に、お釈迦様が悟りに至る修行として定めた「六波羅蜜」という六つの修行がありますが、その一つである「精進」とは、まさに懸命に働くことなのです。ひたむきに自分の仕事に打ち込み、精魂込めて、倦まずたゆまず努力を重ねていくこと。
- それがそのまま人格練磨のための「修行」となって、私たちの心を磨き、人間を成長させてくれるのです。
- そして、そのように「心を高める」ことを通じてこそ、私たちはそれぞれの人生を深く値打ちあるものにすることができるのです。
- 反省ある毎日を送る
- 人生では、心を高めていこうとしても、言うは易く行なうは難しで、実践することはけっして簡単ではありません。
- 悲しいかな、人間とはいくら善いことを思い、善いことを行なおうと思っても、ついつい至らぬことをしてしまうものです。よほどの聖人君子でなければ、善い考え、善い行ないを貫けるものではありません。それは、かく言う私も同様です。
- ともすれば悪い心にとらわれがちな自分を戒めるために、私はいつのころからか、一つの自戒の儀式を自分に課しています。
- おごり高ぶり、慢心、そういう悪い思いが、自分の中で頭をもたげてきたときには、すぐに反省の機会を持つように、若いころから努めているのです。
- 「神様、ごめんなさい」 という反省の言葉が口をついて出てきてしまう
- 反省することでこそ、人は少しずつでも向上することができるのです。今日、自分がやったことを素直に反省し、明日からやり直そうと心に誓う。
- そんな反省のある毎日を送ってこそ、私たちは仕事において失敗を回避できるだけでなく、人生において心を高めていくことができるのです。
- 「仕事を好きになる」ように働く ──いかに仕事に取り組むか
- 「心の持ち方」を変える
私ももともとは、どこにでもいるような、一生懸命に根を詰めて努力することは苦手な、むらっ気のある青年だったように思います。
そのような青年が、五十年という長い時間、ひたむきに働いてこられたのは、どうしてなのでしょうか。それは、私が自分から仕事を好きになろうと努めたからです。
「心の持ち方」を変えるだけで、自分を取り巻く世界は劇的に変わるのです。
「この仕事に打ち込もう」と自分に言い聞かせるように努めたのです。すぐに仕事が好きにならずとも、少なくとも「この仕事が嫌いだ」というネガティブな感情だけは自分の心から追い払って、目の前の仕事に全力を注いでみることを決意したのです。 - なかば無理に自分に強いて始めたものが、やがて自分から積極的に取り組むほど好きになり、さらには好きとか嫌いとかという次元をはるかに越えて、意義さえ感じるようになっていったのです。「天職」とは出会うものではなく、自らつくり出すものなのです。
- 仕事に「恋をする」
- 恋をしている人は、他人が唖然とするようなことを、平然とやってのけるものです。このことは、一度でも恋をしたことのある人であれば、わかるはずです。
「惚れて通えば千里も一里」
仕事も同様です。仕事に惚れて、好きにならなければなりません。他人からは、「あんなにつらく、あんなに厳しい仕事は、たいへんだろう。とても続かない」と思われるような場合も、惚れた仕事なら、好きな仕事なら耐えられるはずです。
仕事に惚れる――。仕事を好きになる――。だからこそ、私は長い間、厳しい仕事を続けることができたのです。人間は、好きな仕事ならば、どんな苦労も厭いません。 - しかし問題は、多くの人が、その「好きでもない仕事」に不承不承、従事し続けていることです。与えられた仕事に不平不満を持ち続け、愚痴や文句ばかりを言っている。
- それでは、素晴らしい可能性を秘めた人生を、あたらムダにしているようなものです。なんとしても、仕事を好きにならなければなりません。
- 「与えられた仕事」を、まるで自分の天職とさえ思えるような、そういう心境にしていくことが大切なのです。「仕事をやらされている」という意識を払拭できないうちは、働く「苦しみ」を逃れることはできません。
- 「自分の好きな仕事を求めるよりも、与えられた仕事を好きになることから始めよ」と。
- 力がついていけば、必ず成果を生むことができる。成果が出れば、周囲から評価される。評価されれば、さらに仕事が好きになる。こうして好循環が始まるのです。
- まずは、自分の強い意志で仕事を好きになる。他に方法はありません。そうすることで、人生は実り豊かなものになっていくのです。
- 「仕事を好きになる」「仕事を楽しむ」とは言っても、あたかも修行僧が荒行をするかのような、苦しいことばかりでは長続きするはずがありません。やはり、仕事の中に喜びを見出すことも必要です。
- だから、君にいくら軽薄、軽率と言われても、私は今後も、ささやかな成功を喜びながら、仕事に邁進していくつもりだ」
- 若い読者のみなさんにはぜひ、仕事の中に、ささやかなことに喜びを感じ、感動する心を持って、素直に生きていただきたいと思います。
- 「製品を抱いて寝たい」という思い
自分の仕事、自分の製品に対し、それくらいの愛情を注がなければ、いい仕事などできないのではないでしょうか。
「仕事は仕事、自分は自分」と割り切って、距離を置いて働くことと向き合う。最近の若い人にはそうした傾向があるようです。 - しかし本来、いい仕事をするためには、仕事と自分の距離をなくして、「自分は仕事、仕事は自分」というくらいの不可分の状態を経験してみることが必要です。
- すなわち、心と身体ごと、仕事の中に投げ入れてしまうほど、仕事を好きになってしまうのです。いわば仕事と「心中」するくらいの深い愛情を持って働いてみないと、仕事の真髄をつかむことはできません。
私はこの蛇管を「抱いて寝る」ことにした - 製品を抱いて寝る――たしかに垢抜けないし、効率的とは言えないやり方です。今という時代は、そうした泥臭さや非効率さを嫌いもします。
- しかし、いくらクールな時代になり、自分の手を泥まみれ、油まみれにしながら働くということが流行らなくなったとしても、「自分のつくった製品を抱いて寝る」くらいの愛情を持って、自分の仕事と向き合わない限り、難しいテーマや新しいテーマに挑戦し、それをやり遂げていくという、仕事の醍醐味を心の底から味わうことはできないはずです。
- 「製品の泣き声」に耳を澄ませてみる
神の声にも似た「製品の泣き声」が必ず聞こえてきます。
製品の不良や機械の不具合が自然と見えてきて、製品のほうから、また機械のほうから、「こうしたらどうだ」と問題解決の糸口をささやきかけてくれる
それと同様に、製品の声に耳を傾け、その細部に目を向けることで、不良の原因、ミスの要因がおのずとわかってくるものです。 - もし不良品が見つかったなら、つまり製品の泣く声が聞こえてきたら、「この子はいったいどこが痛くて泣いているのだろう。このケガはどこでしたのだろう」と考えていました。
- この例のように、仕事への愛情ほど有能な教師はいません。仕事に行き詰まったり、やり方に迷ったりしたら、愛情を持って、現場に行き、あらゆることを素直な目で見つめ直すことです。
- そうすれば、必ず問題解決のヒントや、新たな挑戦への飛躍台となる、確かな「ささやき」が聞こえてくるはずです。
- 「自燃性の人」となる
同様に、人間のタイプにも火を近づけると燃え上がる「可燃性」の人、火を近づけても燃えない「不燃性」の人、自分からカッカと燃え上がる「自燃性」の人がいます。
何かを成し遂げようとするには、「自ら燃える人」でなければなりません。自ら燃えるためには、自分のしていることを好きになると同時に、明確な目標を持つことが必要です。 - 周囲がいくらカッカと熱くなっていても燃え上がらないどころか、相手の熱まで奪ってしまいそうな、「氷のような人間」がときたまいるものです。
- 「自燃性」の人とは、「人から言われたから仕事をする」「命令されたから仕事をする」といったような人ではありません。
- 「言われる前に自分からやる」という、積極的な人こそが、「自燃性」の人であり、それは仕事を好きになった人であるはずです。
- そんな自分から積極的に仕事に向かい、周囲に働きかけ、仕事をダイナミックに進めていける人を、私は「渦の中心で仕事をしている人」と表現しています。
- 仕事というものは、自分一人ではできません。上司、部下をはじめ、周囲の人々と協力してはじめて、いい仕事となります。
- 仕事を好きになることで、指示に従って動くのではなく、自分から「渦をつくっていく」という気持ちで働くこと。つまり、自燃性の人になることで、仕事で素晴らしい成果を収め、人生を豊かなものにすることができるのです。
- 「渦の中心」で仕事をする
- 「高い目標」を掲げて働く
- たとえ身のほど知らずの大きな夢であっても、気の遠くなるほどの高い目標であっても、それをしっかりと胸に抱き、まずは眼前に掲げることが大切
- なぜなら、人間には、夢を本当のものにしてしまう、素晴らしい力があるからです。京都一、日本一の企業となると思い続けているうちに、いつのまにか自分自身でもそれが当たり前のように思えてきました。
- 高い目標とは、人間や組織に進歩を促してくれる、最良のエンジンなのです。
- まず「思わなければならない」
- 「景気がよいときに、景気がよいままに経営するのではなくて、景気が悪くなるときのことを考えて、余裕のあるときに蓄えをする。つまり、水を溜めておくダムのように、景気が悪いときに備えるような経営をすべきだ」
- 「いや、それは思わんとあきまへんなぁ」
- まずは余裕のある経営を絶対にしなければならないと、あなた自身が真剣に思わなければいけません。余裕のある経営をしたいと本気で思っているかどうか。
- 願望を「潜在意識」に浸透させる
- 思いは必ず実現する。
- それは、人が「どうしてもこうありたい」と強く願えば、その思いが必ずその人の行動となって現れ、実現する方向におのずから向かうからです。ただそれは、強い思いでなければなりません。
- 漠然と思うのではなく、「何がなんでもこうありたい」「必ずこうでなくてはならない」といった、強い思いに裏打ちされた願望、夢でなければならないのです。
- 寝食を忘れるほどに強く思い続け、一日中、そのことばかりをひたすら繰り返し考え続けていくと、その思いは次第に「潜在意識」にまで浸透していきます。
- 運転を覚えたてのころは、手でハンドルを握り、足でアクセル、ブレーキを踏んでというように、動作の一つひとつを頭で考えながら、つまり「顕在意識」で運転をしています。やがて慣れてくると、いちいち操作の手順などを考えなくても、無意識に運転ができるようになります。運転技術が「潜在意識」に浸透したため、「顕在意識」を使わなくても、身体が勝手に動いてくれるようになったわけです。仕事でも、この「潜在意識」を有効に使うべきなのです。
- そのような「ひらめき」は核心を突いていて、今、自分が遭遇している問題を一気に解決してくれることもよくあることです。
- それは、まさに「神の啓示」
- 高い目標を達成していくには、「潜在意識にまで透徹する」ほどの、強い持続した願望を持つことが、まずは前提となるのです。
- 持てる力をすべて出したとき「神が現れる」
- 登山では、平地から自分の足で一歩一歩踏みしめて、頂上を目指していくしかありません。しかし、その一歩一歩の積み上げが、やがて八千メートルを超える、ヒマラヤの高峰を征服することにつながるのです。古今東西の偉人たちの足跡を見ても、そこには気の遠くなるような努力の跡があります。
- 生涯を通じて、そのような地味な一歩一歩の努力を積み重ねていった人にしか、神様は成功という果実をもたらしてくれないのかもしれません。
- 逆に「地味な努力などバカげたことで、そんなことをしていては短い人生で後れを取ってしまう」と考え、何かもっと楽な方法はないかと日々の地道な努力を嫌がるから、仕事で成功を収めることができないのです。
- 「おい、神様に祈ったか?」
- 自分の身体が空っぽになるくらい、製品に自分の「思い」を込め、誰にも負けない努力を重ねたのか。そういうことを言いたかったのです。
- 「おまえがそこまで努力したのなら、その願望が成就するよう助けてやらなくてはなるまい」と、神が重い腰を上げるくらいまでの、徹底した仕事への打ち込みが、困難な仕事にあたるとき、また高い目標を成し遂げていくときには絶対に必要になるのです。
- いつも「百メートル競走のつもりで走れ」
- 「誰にも負けない努力をする」――よく私が口にする言葉です。努力が大切だということは、みんな知っています。
- また、「努力をしていますか?」と問われれば、ほとんどの人が「はい、自分なりに努力をしています」と答えることでしょう。
- ただ、いくら人並みの努力を続けたとしても、みんなが等しく努力を重ねている中にあっては、それはただ当たり前のことをしているだけのことであり、それでは成功はおぼつかないのです。
- 人並み以上の誰にも負けない努力を続けていかなければ、競争がある中ではとても、大きな成果など期待することはできないでしょう。
- この「誰にも負けない」ということが、大切なことです。
- 仕事において何かをなそうとするならば、そのような果てしもない、際限のない努力を惜しんではなりません。人並み以上の努力も払わず、大きな成功を収め、成功を持続できることは絶対にないのです。
- 「誰にも負けない努力」とは、「ここまでやったから OK」といったようにゴールがあるものではありません。終点を設けず、先へ先へと設定されるゴールを果てしなく追いかけていく。そんな無限に続く努力のことです。
- 「会社経営とは、四十二・一九五キロの長丁場を走り続けるマラソンレースのようなものではないだろうか。そうすれば、これまでマラソンなどしたことのない素人集団のわれわれは、その長丁場のレースに遅れて参加した素人ランナーのようなものだ。それでもレースに参加するのであれば、私は百メートル競走のつもりで走りたい。そんな無茶な走り方では身体が持たないと思う人もいるだろうが、遅れて参加し、マラソンの経験もないわれわれには、それしか道はない。それができないのなら、最初からレースには参加しないほうがいい」
- 今後も全力で走り続けていこう」 この短距離を走る速度で長距離を走り続けるような、際限のない努力が、「誰にも負けない努力」なのです。
- ただの努力では、企業も人も大きく伸ばすことはできません。「誰にも負けない努力」こそが、人生や仕事で成功するための駆動力となるのです。
- 誰にも負けない努力は、自然の摂理
- 私たちは、この「誰にも負けない努力」をするということは、特別なことだとつい考えがちです。
- 相手を負かすために一生懸命生きているのではありません。自分自身が生きていくことに一生懸命になるように、自然はもともとできているのです。
- 必死に生きていない植物など、絶対にありません。努力しない草は生存し得ないのです。動物にしても、そうです。必死に一生懸命に生きていかなければ、生き残っていくことはできない。それがこの自然界の掟なのです。
- ところが、私たち人間だけは、「誰にも負けない努力」とか、「一生懸命に生きる」ということを言えば、何か特別なことのように感じてしまう。
- 成功するために、一生懸命に働かなければならないのではありません。生きていくために、「誰にも負けない努力」で働く、それが自然の摂理なのです。
- 継続する力――「平凡な人」を「非凡な人」に変えるもの
- 人生とはつまるところ、「一瞬一瞬の積み重ね」に他なりません。
- 今この一秒の集積が一日となり、その一日の積み重ねが、一週間、一カ月、一年、そしてその人の一生となっていくのです。
- また、「偉大なこと」も「地味なこと」の積み重ねに他なりません。
- 人が驚くような大きな成果、どんな天才が成し遂げたのだろうと思える偉業も、じつはごく普通の人がコツコツと一歩一歩積み上げた結果であることがほとんどなのではないでしょうか。
- 千里の道も一歩からで、どんな大きな夢も遅々たる一歩一歩の歩みを積み重ねた果てに、やっと成就するものなのです。
- エジプトの巨大ピラミッドも、たくさんの名もなき人たちが、地道な作業を営々と積み重ねてきたその結果でしかありません。
- 大きな切り石を一つずつ積み上げていく。その数は何百万個、何千万個にも及んだかもしれません。しかし、それを一個一個運んでは積み上げていく。
- ピラミッドとは、そのような気の遠くなるような作業を継続して行なった、その汗の結晶であるからこそ、悠久の歴史を超えて、今日われわれが目にするような雄姿を誇っているのです。それは、私たち一人ひとりの人生も変わりありません。
- 一つのことを「継続」することによって、とうてい手が届かないと思えていた地点まで到達することができるだけでなく、人間としても大きく成長することが可能になるのです。
- ごく目立たない存在でしかなかった、ただコツコツと愚直に仕事を続けるしかなかった、平凡な彼を非凡に変えたもの――それこそが地味な努力を厭わずに積み重ね、息長く続ける「継続する力」だったのです。
- まさにトーマス・エジソンが言う通り、成功の要因に「ひらめき」や「才能」(インスピレーション)が占める割合はたった一パーセントにすぎず、残りの九十九パーセントは「地道な努力」や「汗をかくこと」(パースピレーション)によるのです。
- 一つのことにあせらず、腐らず、打ち込む。そして何があろうとも屈せずに続けること。それが、人間をしっかりとつくり上げ、さらには人生を実りあるものにしてくれるのです。
- 「カミソリのような人」とは、頭が切れるのはもちろん、仕事の飲み込みも早く、いわゆる才気走った人物です。
- ただ、現実には、それとは逆のことが起こるのです。
- つまり、辞めてほしくない「カミソリのような人」に限って、目先がきくためか、すぐに仕事に見切りをつけ、会社を見限り、辞めてしまうのです。
- そして、会社に残るのは――言葉は悪いですが――最初から期待感の薄い「鈍な人」たちなのです。
- しかし、私は後に、自分の不明を恥じるようになりました。「鈍な人」たちは、倦まずたゆまず、自分の仕事をコツコツとこなしていきます。
- あたかも尺取虫の歩みですが、十年、二十年、三十年と、営々と努力を重ねることを厭わず、ただ愚直に、真面目に、地道に、誠実に働き続けるのです。
- そして、それだけの年月がたつと、それら「鈍な人材」はいつのまにか「非凡な人材」に変わってしまっていることに気づかされ、たいへん驚くのです。
- 人一倍苦労を重ねながら、それでも一生懸命に「働くこと」で、次第に人間をつくっていったのです。
- 「真面目に働く」ことしか自分には能がないと嘆くような人がいたら、その「愚直さ」こそを喜べと言いたい。
- 努力を「継続する力」――それは「平凡な人」を「非凡な人」に変えることができるほど、強大なパワーを持っているのです。
- つまり、今日の目標は、今日必ずやり遂げることを誓い、仕事の成果や進捗を、一日の単位で区切り、それを確実にやり遂げていくことにしたのです。
- 一日のうちに、最低限、一歩だけは前へ出よう。今日は昨日より一センチだけでも前へ進もう。そう考えたのです。
- 今日一日を「生きる単位」として、その一日一日を精一杯に生き、懸命に働くこと。そのような地道な足取りこそが、人生の王道にふさわしい歩み方なのです。
- 今日一日を精一杯努力しよう
- そして計画変更や下方修正を余儀なくされ、ときには計画そのものを放棄しなくてはいけなくなってしまうのです。
- そうして計画変更が続けば、どのような目標を立てても、従業員は「どうせ途中で変わるんだろう」と、目標をあなどるようになり、従業員の士気や、仕事への意欲を削ぐことにもつながっていきます。
- また、目標が遠大であればあるほど、到達するまでに気の遠くなるような努力を続けることが必要です。
- 能力を未来進行形で考える
- 目標を立てるときには、「自分の能力以上のもの」を設定する――それが私の考えです。
- 私はこのことを、「能力を未来進行形で考える」と表現しています。これは、「人間は無限の可能性を持っている」ということを意味します。
- つまり、「人間の能力は未来に向かって限りなく伸びていく可能性を持っている。このことを信じて、自分の人生に夢を描こう」ということを、私は言いたいのです。
- 「私は勉強もしていないので、知識も技術も持ち合わせません。だからできません」と言うのではなく、「私は勉強していないから、知識も技術もありません。しかし、やる気はありますから、必ず来年にはできるようになるはずです」と考えていくべきです。
- しかし、難しい課題を前にすると、ほとんどの人がつい「できません」と言ってしまいがちです。絶対に「できない」と言ってはなりません。難しい課題を前にしたら、まずは自分の無限の可能性を信じることが先決です。
- 「今はできないかもしれないが、努力をすればきっとできるはずだ」と、まずは自分の可能性を信じ、次に必要となる能力をいかに伸ばしていくかを、具体的に考え尽くしていかなければなりません。
- 「できない仕事」を「できる仕事」に変える
- 他社が「できない」と言った仕事を、進んでよく受注したものです。
- 「もうダメだ」というときが仕事の始まり
- 「手がけた研究開発は百パーセント成功させる」――これは私の信念です。京
- 自分に限界を設け設けない、あくなき挑戦心――それこそがピンチをチャンスに変え、失敗さえ成功に結びつけることを可能とするのです。
- いったん狙いをつけたら、けっして最後まであきらめることなく追い続ける、まさに執念にも似た、強い意志が必要とされるのです。
- この狩猟民族の持つ、食らいついたら離れようとしない執念は、同じように仕事にも求められる、「成功のための絶対必要要件」なのです。
- 京セラには、「もうダメだと思ったときが仕事の始まり」という考え方が根づいています。
- 仕事において、「もう万策尽きた。ダメだ」とあきらめたくなるような局面に追い込まれても、それを終点とは考えず、むしろ第二のスタート地点と考える。
- そのような狩猟民族にも勝るような粘りが、目標を達成していくにあたり、求められる
- 苦難、成功いずれにしても「私たちは試されている」
- つらく苦しいときこそ、チャンスだと考えるべきです。なぜなら、苦難こそが、人を育ててくれるからです。また一方、順風満帆のときにこそ、かえって過ちを犯しやすいものです。
- また、成功や幸運に遭遇したときにも、おごることなく、素直に感謝して、さらに努力を重ね、その成功を長く持続させることができるのか。
- 苦難、成功いずれにしても、私たちは試されているのです。
- 試練の中でも懸命に努力を続ける日々、それは成功の種を大事に育てているときなのです。
- 感性的な悩みをしない
- 「覆水盆に返らず」と言うように、一度こぼした水はけっして元へは戻りません。「なんであんなことをしたのだろう、あんなことをしなければよかった」と、いつまでも悩んでみたところで詮ないことです。
- 失敗した原因をよく考え、反省はしなければなりません。「あんなバカなことをなぜしたのだろう」と、厳しく自省をしなければなりません。
- 感性的な心の悩みを払拭し、明るく前向きに新しい方向へ新しい行動を起こしていくのです。これは、人生を生きていくうえでたいへん大事なことです。人間は失敗、間違いを繰り返しながら成長していくものです。失敗していいのです。
- 失敗をしたら、反省をし、そして新しい行動へと移る――そのような人は、たとえどんな窮地に陥ろうとも、後に必ず成功を遂げていくことができるのです。
- 厳しさこそ人を鍛える
- しかし私は同時に、「鍛えていただいている」という感謝の思いも強く持っていました。厳しい要求は、やっと歩き始めた自分の会社の足腰を鍛える、絶好の研鑽の機会と考えたのです。
- この程度の要求に応えられないようでは、会社も自分もしょせん二流、三流止まりだろう。
- 「どんなに険しい山でも、垂直に登り続けよう」
- しかし、私が出した結論はやはり、「妥協という誘惑には絶対に耳を貸すまい」ということでした。信念を曲げることなく、懸命に働き続けることしか、自分にはできない――改めて初心に返って、そう心に誓ったものです。
- 登山の技術も経験もあるわけではない人間が、パーティーのリーダーとしてメンバーを率いて、峻険な岩山をまっすぐよじ登っていく──怖くて足がすくむ者、途中で脱落する者が出てきても無理はありません。
- 安全を第一に考えるなら、そびえ立つ岩山を垂直に登るのではなく、山すそを迂回しながら、ゆっくりとゆるやかに登っていく方法もあるでしょう。
- それがまさに先輩の教えてくれた「いい意味での妥協」であり、賢明な策というものかもしれません。しかし、私はそのような安易な道を取らないことにしました。
- なぜなら、ゆるやかな道を行くという安全策を取った瞬間に、私は目指すはるかな頂きを見失ってしまうと思ったからです。
- 自分に妥協を許し、安易な道を選べば、その瞬間は楽でも、夢や高い目標を実現することができずに、後で必ず後悔することになります。
- 人生や仕事におけるどんな困難な山も、安易に妥協することなく、垂直に登り続けていくことが大切です。
- 強い意志を持って、一歩一歩地道な努力を日々継続する人は、いくら遠い道のりであろうとも、いつか必ず人生の頂上に立つことができるに違いありません。
- 立派な仕事は「完璧主義」から生まれる
- 当時、爆撃機には、整備士が機関士として必ず乗らなければならなかったのですが、ほとんどの人が自分の整備した飛行機ではなく、同僚の整備した飛行機に乗っていたそうです。
- 整備は一生懸命にしたけれども、それが「完璧か?」と問われると、自信を持って「完璧です」とは答えられない。
- そのように自分に自信が持てないから、万一のことを考えて、同僚が整備した爆撃機に乗り込むわけです。同じような話を聞いたことがあります。
- 自分の子ども、妻、両親が重病になった場合、自信を持って診断できない医師が多いというのです。手術となればなおさらで、自分が信頼する医師に任せるというのです。
- 「肉親の情が先に立って手が震える」といった理由も考えられますが、私はそうではないと思います。この場合も、「自分に自信が持てない」からなのです。
- なぜかと言えば、私にとっては「毎日」が真剣勝負であり、その日々の積み重ねを通じて、仕事と真正面から向き合い、自分自身の腕に自信を持っているであろうからです。
- 「完璧主義」とは、毎日の真剣な生き方からしか生まれません。日々「完璧を目指す」ことは厳しく、難しいことです。しかし、本当に満足できる仕事を目指すなら、「完璧を目指す」ことしか方法がないこともまた、歴然たる事実なのです。
- 最後の「一パーセントの努力」で決まる
- ものづくりにおいては、九十九パーセントまでうまくいっていても、最後の一パーセントの努力を怠ったがために、すべてがムダになることがしばしばあります。
- 一つのミス、一つの妥協、一つの手抜きも許されない、百パーセントを目指す「パーフェクト」な取り組みがいつも要求されるのです。
- そのように意識して集中していくことを、「有意注意」と言います。一方、音がしたから振り向き、注意を向けるというのは、「無意注意」と言います。
- 消しゴムでは、絶対に消せないもの
- 仕事ができる人というのは、「完璧主義を貫く」姿勢が身についている人です。これは製造業に限らず、あらゆる業種、職種にあてはまることではないでしょうか。
- 残念ながら、ミスが発生すれば、そのように消しゴムで消して、やり直せばいいと思っている人が少なくありません。仕事においては、消しゴムでは絶対に消せないときがあります。
- また、「やり直しがきく」という考え方でいる限り、小さなミスを繰り返し、やがて取り返しのつかないミスを犯す危険性をはらんでいると言っていいでしょう。
- いかなるときでも「やり直し」は絶対にきかないと考え、日ごろから「有意注意」を心がけ、一つのミスも許さない、そんな「完璧主義」を貫いてこそ、仕事の上達があり、人間的な成長もあるのです。
- 仕事で一番大事なことは「細部にある」
- 一つは、「細部まで注意を払うこと」でした。
- 「神は細部に宿りたまう」というドイツの格言があるように、仕事の本質は細部にあります。いい仕事は、細部をおろそかにしない姿勢からこそ生まれるものなのです。
- 二つには、「理屈より経験を大切にすること」でした。
- そして三つ目は、「地道な作業を続けていくことを厭わないこと」でした。
- こうして、私は「手の切れるような製品をつくろう」と呼びかけたのです。
- あまりに素晴らしく、あまりに完璧なため、手を触れたら切れてしまいそうな、それほど完全無欠のものをつくることを目指すべきだ――そういうことを訴えたかったのです。
- 「もう、これ以上のものはない」と確信できるものが完成するまで、努力を惜しまない――そのような「完璧主義」が、創造という高い山の頂上を目指す者には、どうしても必要になるのです。
- 「完成形が見える」なら必ず成功する!
- これが「見える」ということなのです。考えに考え抜き、シミュレーションを繰り返していたから、未来さえ見えるようになったのです。
- そのようにして、すみずみまで明瞭にイメージできたことは、間違いなく成功します。
- 逆に言えば、そのような完成形が見えるまで強く思い、深く考えていかなければ、仕事や人生での成功はおぼつかないと言えるでしょう。
- あえて「人が通らない道」を歩く
- 「道とも思えない、田んぼのあぜ道のようなぬかるみを歩いてきた。足を滑らせて田んぼに足を踏み外したり、突然、目の前に現れるカエルやヘビに驚いたりしながらも、一歩ずつ歩いていく。ふと横を見ると、舗装されたいい道があって、そこを車や人が通っていた。その道を歩けば、ずっと楽に歩けるのはわかっていた。しかし、私は自らの意志で、あえて人が通らない、ぬかるみの道をただひたすらに歩いてきた」
- 「舗装されたいい道」とは、「誰もが考えつき、実際に通る常識的な道」のことです。
- そのような舗装された道を、人の後から歩いていっても意味はありません。先人の後塵ばかりを拝することになり、新しいことなど絶対にできるはずがないのです。また、人と同じことをいくらやっても、大きな成果を期待することは難しいでしょう。
- 大勢の人が歩いていった、何も残っていない道を歩くよりは、いくら歩きづらくても、新しい発見があり、大きな成果が期待できる道を歩こう。実際に、そのような人の通らないぬかるみの道、いわば未踏の道こそが、苦労は伴うものの、想像もしないような、素晴らしい未来に通じていたのです。
- 「掃除一つ」でも人生は変わる
- 日々、「つねに創造的な仕事をする」ということを、半世紀も絶え間なく続けてきた、その結果にすぎないのです。
- 毎日毎日、少しでも「創造的な仕事をする」ことを心がけていく。
- そして、そのような創意工夫を日々重ね、やがて一年もたてば、掃除のプロフェッショナルとして、そのノウハウが職場の仲間から高く評価されるようになることでしょう。
- それは、現状に飽きたらず、少しでもよくありたい、自分も日々向上していたいという、「思い」の差なのかもしれません。
- 毎日、少しの創意と工夫を上乗せして、今日は昨日よりもわずかなりとも前へ進む。
- 「創造」というものは、「素人」がするもので、「専門家」がするものでないことを。新しいことができるのは、何ものにもとらわれない、冒険心の強い「素人」であり、その分野で経験を重ね、多くの前例や常識を備えた専門家
- 「新しい計画」を必ず成就させる
- 「新しき計画の成就は、ただ不屈不撓の一心にあり。さらばひたむきにただ想え。気高く強く一筋に」 これは、積極思考を説いた哲人、中村天風さんの著書からお借りした一節です。
- 私が、この経営スローガンを通じて言いたかったことは、人間の「思い」には、ものごとを成就させる力があるということ。
- とくにその「思い」が気高く美しく純粋で一筋なものであるなら、最大のパワーを発揮して、困難と思われる計画や目標も、必ず実現させていくということでした。
- 「けがれた人間が敗北を恐れて踏み込もうとしない場所にも、清らかな人間は平気で足を踏み入れ、いとも簡単に勝利を手にしてしまうことが少なくありません。なぜならば、清らかな人間は、いつも自分のエネルギーを、より穏やかな心と、より明確で、より強力な目的意識によって導いているからです」
- 純粋で美しい思いを強く抱き、誰にも負けない努力を重ねることができれば、どんなに難しい目標も必ず実現することができる――「真理」
- 「純粋で強烈な思いがあれば、必ず成功できる」――このことを信じ、ただひたすらに、美しく清い心を持って、誰にも負けない努力を重ねていけば、必ず新しいことを成し遂げていくことができるのです。
- 楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する
- 楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する
- 新しいことを始めて、それを成功させていく人というのは、自分の未来を明るく描く楽天的な人間であることが多いものです。
- 「こういうことをひらめいた。今のままでは実現できる可能性は低いが、必死に努力すれば、必ず成功することができるはずだ。よし、やってみるか」――こうした楽天家のほうが、得てして成功に近いものなのです。
- ですから、私は、困難が予想される新しい事業を進めるにあたって、あえて「おっちょこちょいな人間」を起用することがよくありました。
- 少しばかり単細胞でおっちょこちょいではあっても、「それはおもしろい、ぜひやりましょう」と無邪気に賛意を示して、その場ですぐに腕まくりでもしてくれるような人間に、私は新しい仕事のリーダー役を任せることが多くありました。それは、頭がいい人には悲観論者が多いからです。
- なまじ鋭敏な頭脳を持っているがゆえに、よく先が見えて、実行する前からものごとの可否がおおよそ判断できてしまいます。
- したがって新しいアイデアについても、「それは無理だ」とか「実現の可能性が低い」といったネガティブな判断を下すことも少なくありません。
- つまり、悲観論者は先は見えるが、そのことが、ともすれば実行力や推進力を抑制することにつながりがちなのです。
- 一方、楽観論者はその反対で、先の見通しには暗いのですが、先へ進もうとする馬力があります。だから、プロジェクトの構想段階や立ち上げの時期には、楽観論者のそのものごとを前へ進める力を買って、彼に牽引役を任せるのです。
- ただし、その構想を具体的に計画に移すときは、そのまま任せることは危険です。楽観論者はその馬力ゆえに、ときに暴走したり、道を誤ったりしがちだからです。
- そこで、慎重で熟慮型のものがよく見える人間を副官につけて、あらゆるリスクを想定し、慎重かつ細心の注意を払って、実際の行動計画を立てていくのです。
- 計画をいざ実行する段になったら、再び楽観論に戻って、思い切って行動できるようにしなければならないのです。「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」――これが新しいテーマに挑戦していく最良の方法だと、私は考えています。
- そのような強い思いがあるからこそ、未知の領域で遭遇する、いかなる困難に直面しようとも、それを克服して、仕事を進めていくことができ、その結果として、常識を超えた、画期的なイノベーションを成し遂げることができるのです。
- もちろん、画期的なイノベーションが、たった一年や二年で簡単にできるというわけではありません。それどころか十年たっても、二十年たっても、思うような目標に到達できないこともあります。しかし、そこであきらめてしまっては、新しいことなど何一つ成し遂げることはできません。
- 「日々の創意工夫こそが真の創造と成功を生む」という、あまりに平凡すぎるほどの教訓なのです。
- 「人生・仕事の結果」 =「考え方 ×熱意 ×能力」
- それは、中学受験、大学受験、そして就職試験と、ことごとく志望がかなわなかった私が、「自分のような平凡な人間が、素晴らしい人生を生きていこうと思うなら、いったい何が必要になるのだろう」ということを、働き始めたときから、いつも考えていたからです。
- この方程式は、「能力」、「熱意」、「考え方」という三つの要素から成り立っています。「能力」とは、知能や運動神経、あるいは健康などがこれにあたり、両親あるいは天から与えられたものです。この天賦の才とも言える「能力」を点数で表せば、個人差があり、「〇点」から「百点」まであります。この「能力」に「熱意」という要素が掛かってきます。
- 「熱意」とは、「努力」と言い換えることができます。
- これも、やる気や覇気のまったくない、無気力で自堕落な人間から、人生や仕事に対して燃えるような情熱を抱き、懸命に努力を重ねる人間まで、やはり個人差があり、「〇点」から「百点」まであります。ただし、この「熱意」は、自分の意志で決めることができます。私は、この「熱意」を最大限にしようと、誰にも負けない、際限のない努力を続けてきました。
- さらに、これに「考え方」が掛かってきます。私は、この「考え方」がもっとも大切であると考えています。
- 「能力」や「熱意」と違って、この「考え方」には、「マイナス百点」から「プラス百点」までの大きな振れ幅があると思うのです。
- たとえば、自分の苦労を厭わず、「他に善かれかし」と願い、一生懸命に生きていくような「考え方」はプラスの「考え方」ですが、世をすね、人を妬み、まともな生き様を否定するような「考え方」は、マイナスの「考え方」だと私は考えています。
- 読者のみなさんも、ぜひ正しい「考え方」を持ち、強い「熱意」で誰にも負けない努力を払い、持てる「能力」を最大限に活かし、仕事に真正面からあたるよう努めてください。
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